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少林門の研究-歴史(北魏~清末)-

 古代少林寺及び少林僧の活動に関する記載は、中国の様々な方面の文献、例えば詩作、地方誌、武術書籍、文学作品等に数多く見ることが出来る。また少林寺には歴史的な功績やその他の事柄を記録した石碑が多く残されており、色彩豊かな故事世界を物語っている。その多くが伝説の域を出ない、または考証の困難なものも多く、中には神秘的な脚色や何らかの意図をもって改変がなされていると思しき例も少なくないが、それを差し引いたとしても当時の少林寺が仏教と武術の聖地であり、これらの一大交流地点であった事、そして時代時代の権力者(主に皇帝)と強く結びつき、宗教と政治、及び軍事的にも少なからぬ役割を担っていた事は容易に想像できるものである。

・少林寺開山

 少林寺は北魏太和二十年(496年)、来朝したインド僧・跋陀のために孝文帝の命で建立された。跋陀は少林寺に住みインド伝来の経典を翻訳し、説法を行い仏法を広めた。翻訳したものには『十地』、『華厳』、『維摩』、『涅槃』などの経文がある。跋陀が少林寺に伝えた仏教は小乗仏教であり、後に菩提達磨が伝えた大乗仏教とは枝を異にする一派である。小乗仏教とは、大乗仏教が衆生の救済を第一と考え、自らの派を「大きな乗り物」即ち大乗と称するのに対し、自我の解脱を第一の目的としたインドの比較的早期に生まれた仏教である。

 跋陀の高弟には慧光、道房、僧稠などがある。跋陀は少林寺に二年留まり、その後一切を慧光に託して寺を去った。跋陀が少林寺を離れた後、寺の仏事その他の安排は慧光が司り、慧光が寺を離れた後は僧稠がその後を継いだ。「少林寺」の寺号は孝文帝の命名によるもので、皇帝の「寺門に二株の樹木あり、二木で林と為す。山峰少室山、峰下に建寺す。名を少林寺と云う」との言に由来する

・禅宗開祖菩提達磨

 『景徳傳燈録』によると、達磨は南天竺(南インド)香至国の第三王子として生まれた。本の名を菩提多羅という。釈迦の弟子摩訶迦葉から数えて二十七代の般若多羅に弟子入りし、菩提達磨と名を改めた。後に師の「震旦(中国)にいくべし」との助言に従い、梁普通年間(520年~527年、その他諸説あり)に中国に渡った。天竺の高僧来中の報せを受けた梁の武帝は早速達磨を宮廷に招き謁見するが、仏法の認識について意気投合せず、達磨は帝の下を辞退し北上し、最後に嵩山に至った。この時、達磨と武帝の行った問答は以下の如くである。

武帝問曰:「如何是聖諦第一義?」
達磨答曰:「廓然無聖」
武帝問曰:「朕建寺斎僧有何功徳」
達磨答曰:「無功徳」
武帝問曰:「対朕者誰?」
達磨答曰:「不識」

 大意を訳すと、一問目「仏教の第一義は何か?」、「がらんとして何もない」 二問目「朕は寺を建立し、僧を養ったがどのような功徳があるか?」、「無功徳である」 三問目「朕の目の前にいるのは誰か?」、「識らず」といった意味である。ごく短い、簡単な問答であるが、達磨の仏法に対する考え方をよく表した名言である。その後嵩山に至った達磨は「面壁九年」の坐禅を行った後少林寺に入り、中国禅宗の第一祖となった。達磨が面壁した洞窟は「達磨洞」と言われ、少林寺の裏山に今でも史跡が残っている。また少林寺には、座禅を行う達磨の影が焼き付いたといわれる「面壁石」が保管されている(※これは模造品である、実物は二八火厄で失われた)。達磨に関してはこれ以外にも多くの逸話が残されているが、どれも神秘的色合いが強い。達磨が遺した『易筋』、『洗髄』の二経から少林武術が発生したという説もあるが、これらは後世の創作であろうと言われている。達磨と『易筋経』については武術研究家の唐豪が『少林武当攷(考)』の中で考察を述べている。
達磨 達磨 達磨
達磨一葦渡江図(左)  達磨隻履西帰像『少林寺志』より(中および右)

・二祖慧可

 達磨の高弟には慧可がある。慧可は俗名を神光という。僧稠が寺を離れ方丈不在となった少林寺に新たな主人を求めて達磨と出会い、請うて寺に留めた。達磨は少林寺に至った後も山洞に籠もり九年の面壁を行ったので、その間の達磨の世話及び寺務は神光が全て執り行った。達磨が山を下りて暫く経ったある日、神光は達磨に入門の許しを乞うが、達磨は方丈室の後ろの小殿に隠れたきりそれに応えることはなかった。折しも少室山には大雪が降り、雪は堂前に立ちつくす神光の下半身を埋める程に積もりつつあった。重ねて懇願する神光に達磨は「その雪が紅く染まったなら弟子として入門を許す」と言い、神光はその場で自ら左腕を切り落とした。これを見て達磨は神光の弟子入りを認め、「慧可」の法号を与えた。この逸話は「立雪断臂」として有名であり、慧可が腕を切り落とした場所を「立雪亭」、慧可が断臂の傷を癒した場所を「二祖庵」と言い、現在に語り継がれている。

 ある時慧可は達磨に、「(永らく仏法を修行して来ましたが)私の心は未だ安まりません、どうかこの心を鎮めて下さい」と請うた。達磨はそれに対し、「それなら汝の心を持ってきなさい」と答えたが、慧可は「心を探しましたが、ついに見つかりませんでした」と言い、遂には達磨の「我はすでに汝を安心させている」との一言で忽然と悟りを開き、達磨より衣鉢真伝を授けられ禅宗の第二祖となった。
慧可曰:「我心未寧、乞師与安」
達磨曰:「将心来,与汝安.」
慧可曰:「覓心了不可得.」
達磨曰:「我与汝安心竟.」

立雪亭
「禅宗初祖天竺僧、立臂求法立雪人」の対聯が掲げられている

・十三棍僧、唐王を救う

 武徳四年(621年)、随が滅亡し、新たに唐朝が長安に興った時代。随の遺将王世充が洛陽に「鄭」国を建て、自ら皇帝と称していた。唐第一代高祖李淵は唐王朝の統一政権を更に強固なものとするため、息子の李世民に命じて王世充を討伐すべく、洛陽に向かわせた。この時、少林寺は志操、曇宗をはじめとする僧兵団を派遣し、進んで李世民を助けた。少林寺の武僧達は戦闘の中で、王世充の甥である王仁則を生け捕りにするなど多大な功績を立て、結果王世充の鄭を下すのに大きな力となった。

 後に李世民が帝位に昇った際、以前の功労を忘れず、少林寺に広大な荘園を与え、以後寺の僧が武術を練功し兵力を保持する事を赦した他、曇宗を大将軍の位に封じた。これ以後、少林寺はますます隆盛を極め、同時に時の権力者との繋がりを強めていった。映画『少林寺』の元にもなった有名なエピソードで、少林寺の白衣殿にもこれに題材を取った壁画がある他、李世民の親筆が刻まれた『太宗文皇帝御書碑』が残っている。
十三棍僧 李世民肖像
少林寺白衣殿にある十三棍僧の壁画(左)と李世民肖像(右)

・武則天(則天武后)と少林寺、及び登封

 武則天は中国の歴史上で唯一の女帝である。元々は唐太宗李世民の才人(妃の一種)であったが太宗の死後、高宗李治の皇后となった。病気がちであった高宗に代わって垂簾聴政を行い高宗の死後、ついには皇帝の座にまで登り詰めた。武則天は生涯で10回に渡り嵩山に登り、少林寺にも幾度も訪れては多くの寄進を行った。

 683年、武則天はかねてより少林寺に建立を要請していた亡母揚氏のための十層下生弥勒仏塔の早期竣工を促すため、甥の武三思を遣わして、寺主に宛てた親筆と共に金や絹などを下賜した。これによって仏塔は揚氏の三周忌に間に合うかたちで完成し、無事功徳を行うことが出来た。この時の手紙の内容は、『大唐天后御制文』碑として少林寺に残っている。

 690年、自らを聖神皇帝と称し帝位に就き、洛陽を神都と定めた。695年には嵩山に登って封禅の儀式を行い、天地の神霊に即位を報告し天下の泰平を祈念した。そしてこの年を万歳登封元年と改めた。「登封」の地名はこの事跡に由来するものである。

 700年、77歳になった武則天は嵩山山頂に登り法事を行い、最高峰の峻極峰に贖罪の金筒を奉納したと言われている。この伝説に従って多くの人が嵩山に登りこの宝貝を求めたが、一向に結果を得る事は出来なかった。しかし1982年5月21日、登封県唐庄公社の農民屈西懐が嵩山峻極峰で薬草を採取していたところ、武則天が建立した「登封壇」の西南1メートルにある大岩の下から偶然に、ひとつの長方形の金属片を掘り出した。表面は黄土で汚れていたが、手で拭いてみるとそれは光り輝き、表面には文字が刻まれていた。後に国家文物局の鑑定によって、これこそが武則天が嵩山山頂に奉納した「除罪金筒」であると判明した。金筒は長方形で、長さ36.5ミリ、幅8ミリ、厚さ0.1ミリで主さは233.5グラム、金の純度98%以上であったそうである。これは現存する武則天に関する唯一の文物で、その価値は計り知れない。
武則天肖像  武則天除罪金筒
武則天肖像(左) 武則天除罪金筒(右)


・十八家の武術高手が少林寺に集う

 宋太祖建隆初年、当時の方丈であった福居和尚は全国の武術高手を少林寺に招き、三日間に渡って以武会友(交流試合)を行った。その内、特に優れた十八家の拳師に要請して寺に留め、千佛殿(寺の練功場所)にてぞれぞれの門派の技を寺僧に教授させ、同時に少林寺の秘技を彼らに伝えた。福居はこれら十八家の技を、長を取って短を補い、一冊の『少林拳譜』を編纂した。十八家の門派は「太祖長拳起首、韓通通臂為母、鄭恩的当門纏封、温元的短拳快攻、馬籍的短打截法、黄佑的貼身靠打、孫恒的穿山拳、錦盛的迎面掌撃、金箱的蓋手通拳、劉興的勾搂探手、譚雲的漏滾手法、孟獲的七勢連拳、燕青的粘拿跌法、林冲之鴛鴦脚、崔連之窩炮捶、揚滾之捆掳直入、王郎之蟷螂克敵、高懐徳之摔掳硬崩」である。この故事は、当時の少林寺が中国でも有名な武術の学府であり、そこで大いに他門派との技術交流が行われていたことを推測させるものである。

・少林武術中興の祖

 金末元初の頃、一人の武僧が全国に名師高手を訪ねて少林寺より旅立った。武僧の名は覚遠という。覚遠は少林寺の蔵経閣の管理をしていたが、少林寺の武術をより完備されたものに発展させるため、師父の恒温より許可を得、寺を離れ全国を雲游した。覚遠はまず蘭州で高手李叟と出会い、二人は数日の間切磋琢磨した後、李叟の紹介でやはり武術の名人である白玉峰を訪ねる事になった。白玉峰は山西省太原の人で、李叟の朋友(または師弟)である。そして洛陽で丁度当地に逗留している白玉峰と会い、その後覚遠、白玉峰、李叟親子の四人で少林寺に帰還した。

 四人は寺内で切磋琢磨し、白玉峰は自らの技を隠すところなく覚遠に伝授した。まず白玉峰は覚遠と協力して、少林寺に伝わる数百の套路について系統的な整理を行った。そして覚遠は寺に元々あった羅漢十八手を七十二手に発展させ、後々更に百七十三手にまで増加させた。更に白玉峰は『五拳精要』を著し、「龍、虎、豹、蛇、鶴」の少林五拳を創始した。白玉峰は後に少林寺に帰依し、秋月と法号を定めた。李叟は少林寺で数十年に渡り擒拿や棍術の絶技を伝授した後に寺を離れた。李叟の息子は寺に残り仏門に帰依し、法号を澄慧と称した。覚遠と白玉峰はその功績により、後世の人々は少林武術中興の祖として、二人を「覚遠上人」、「秋月禅師」と尊称するようになった。

※少林寺の歴史上には二人の覚遠が存在する。一人は元代の覚遠で、本稿で紹介したのはこちらである。もう一人は唐代少林寺の覚遠で、こちらは映画『少林寺』に出てくる覚遠のモデルになっている。

・福裕和尚、禅宗五派を統一し、少林曹洞禅宗を創始する

 福裕。山西省水文県の人。俗性を張と言う。幼い頃より聡明で、様々な書物を一読しただけでその意を悟ってしまう事から郷里の人々に「聖小児」と称された。休林に弟子入りし出家し、後に皇帝によって少林寺住持に封じられた。少林寺の『釋氏源流碑』によると、福裕はそれまで曹洞宗、臨済宗、雲門宗、潙仰宗、法眼宗の五派に分かれていた禅宗を統一し、少林曹洞禅宗を創始した。同時に七十字の字輩を制定し、これ以降の法号はこの七十字輩の順序に従って命名される事となった。福裕の「福」字を第一世とし、例えば少林寺現方丈の永信は第三十三世と数える。現在は概ね「素、徳、行、永、延」の五代が活躍している時代である。

 「少林曹洞禅宗七十字輩号」
 福慧智子覺,了本圓可悟。
 周洪普廣宗,道慶同玄祖。
 清淨真如海,湛寂淳貞素。
 德行永延恒,妙本常堅固。
 心朗照幽深,性明鑒崇祚。
 衷正善禧禪,謹愨原濟度。
 雪庭爲導師,引汝歸鉉路。


・少林寺守護神緊那羅

 伝承によると緊那羅は元末明初の少林寺に実在した炊事僧だったと言われている。普段は他人と話す事もなく、気にかける者もいなかったが、実は緊那羅はその身に卓越した武功を備えていた。ある時、寺の武術教頭が僧達を集めて彼らの練功の成果を見極めるために、試合を催してこれを競わせた。ところが全ての僧が試合を終えた時、緊那羅だけが出てきていない事に気づき、他の僧に命じて呼びに行かせたところ、緊那羅は炊事に使う棍棒を持って現れた。これを見た衆僧は「緊那羅に何が出来る」と皆笑っていたが、緊那羅が擂台(試合用の一段高くなった台)に登り、棍を地面に突き立てると一尺(約30cm)も地面にめり込み、動き始めれば棍は風を巻き起こし唸りを上げ、闘えば誰もこれに敵う者がいなかったという。

 また、当時中国各地で起こっていた紅巾軍という農民蜂起のならず者達が、寺の財産を狙って襲撃してきた時に棍を持って山門を飛び出し、これを一人で撃退し、「我は緊那羅王、観音菩薩の化身なり」と言い残して忽然と姿を消したとも言われている。

 緊那羅についての伝承は少林寺院内とはじめ、登封県内の民間にも伝わっており、その呼び名は「緊那羅」、「緊那羅王」、「挪爺」、「挪夫」、「二輩爺」など様々である。伝承の内容は、各々で完全には一致しないが、概ね元末明初の少林寺僧であったという点で共通している。緊那羅は現在でも少林寺院内の緊那羅殿に奉られている他、登封県内の磨溝、阮村、駱駝崖などの民間拳師の間では少林武術の守護神、もしくは始祖として尊敬を受けている。
緊那羅 緊那羅 緊那羅
『少林寺志』より(左) 『少林棍法闡宗』より(中) 王宗仁師父所蔵(右)

・少林寺で学んだ日本留学僧(1)邵元

 邵元は山陰道但馬(現在の兵庫県出石郡但東町)正法禅寺の住持であったが、1327年に渡中し、その二年後に少林寺に到った。邵元は約20年間に渡って少林寺に住み、禅宗および武術を学んだ。邵元が少林寺に着いた時、当時の方丈であった照公は大いに歓迎し、二人はその後永きに渡って友情を結ぶ事となる。邵元は照公禅師に就いて仏法を学ぶと同時に少林武術の教えも受け、照公禅師は邵元の進歩の早さを喜び、技芸をことごとく伝えた。また照公禅師と共同で大鐘を鋳造し、これには「住持嗣祖沙門息庵(照公)」と「書記邵元」の銘が記されている。

 邵元は20年近く少林寺に留まり、その間寺の書記(副方丈)を務めるまでになったが、帰国の間際になって親友であり、師父でもあった照公方丈が突然帰西(亡くなること)するという不幸に遭う。照公方丈が突然圓寂した事は、邵元を大いに悲しませた。邵元は衆僧を組織して方丈を荼毘に付し、その後寺西にある塔林に特別立派な塔を建立した。邵元は照公和尚との友情を記念して自ら筆を取り墓銘を記した。そして塔前に四十九日間留まり墓を守った後、1347年に帰国した。
邵元選筆碑
照公和尚塔銘「当山首座日本國 沙門邵元撰並書」と記されている

・少林寺で学んだ日本留学僧(2)大智



・倭寇と戦った少林僧

 明嘉靖年間、月空及び小山の両少林寺武僧はそれぞれ僧兵を率いて遠征し、当時中国東南部沿岸を荒らし回っていた倭寇と交戦したと記録にある。『日知録』によると、月空は嘉靖年間に南京中軍都督萬表の命令により、30数名の僧徒を率いて軍を立て、松江一帯(上海)で倭寇と戦った。この交戦の中で僧兵は手に鉄棍を持ち、勇敢に海盗を撃殺したが、月空の僧兵もこの戦いの中で全て(大部分?)戦死したと記載されている。その他、少林寺の『征戦立功簿』によると、小山も三度に渡って倭寇討伐に功があり、嘉靖皇帝より少林寺門前に一対の旗杆と石獅子を賜ったとされている。これ以外にも幾つかの文献で少林寺武僧が幾度かの戦いに参加した様子が記されている。

 『雲間雑志』:明嘉靖30年(1551年)、海上より下沙鎮(坑州)に侵入してきた倭寇に対し、蔡可泉の召集により月空を首領とする少林寺の僧兵100数名を組織した。

 『少林武僧志』: 月空は垣然の高弟で、詔に応じて30数名の武僧を率いて復権泉州に赴き、倭寇を撃退し功を立てた。そして泉州に少林寺を建ててこの寺の方丈となった。

 『江南経略・僧兵大捷記』:都督万鹿圓は200名の僧兵を昭慶寺にて養成した。天池、天真など40名の僧及び孤舟、月空などは皆抗州昭慶寺に属する。

 『南匯県志』:

 『倭変事略』: