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少林門の研究-歴史(清末~近代)-

 近代少林寺の歴史は当時の世相を反映して、混乱の繰り返しである。国力の弱体化から辛亥革命が起こり清朝が倒れて以後、軍閥は各地に割拠し勢力を争い、海外の列強は中国を植民地にせんと虎視眈々と機会を窺っていた。軍閥戦争が落ち着いた後は抗日戦争、そして国民党と共産党の内戦。結果共産党が勝利し、新中国が成立した後は文化大革命と、その度に少林寺も大小の影響を免れなかった。しかし裏を返せばこの時期は武術が実戦のために訓練された最後の時代であり、そのためか名僧名人が院内外を問わず多く出現し、後々に伝説を残した時代でもある。

・少林寺保衛団

 民国初年(1911年)、諸外国の侵略、清朝の滅亡、そして軍閥間の衝突等、世の中は大いに乱れ、巷には土匪が跋扈していた。少林寺では寺院及びその近隣農民の守護を目的とし、少林寺保衛団を組織した。この時、登封県府は少林寺住持である恒林を団総に任じ、恒林は「菩薩の心と金剛の面目」をもって銃器を装備し、僧兵を訓練した。恒林は民団を率いて土匪と戦うこと数十回、全てにおいて勝利し、これらの戦闘を通じて寺は多くの銃器と弾薬を獲得した。恒林率いる保衛団の活躍によって、寺とその近隣十数の村々の民衆は安心して暮らす事が出来るようになり、人々は恒林を「少林活佛」と褒め称えた。しかし民国十二年(1823年)の秋、これまでの過酷な職務による過労から病に臥し、59歳でこの世を去った。恒林圓寂の後は、弟子の妙興が少林寺保衛団団総の職を引き継いだ。

 民国十一年(1922年)、直隷派軍閥呉佩孚配下の樊鐘秀が部隊を少林寺に休めた際、大雄宝殿が損壊したまま放置されているのを見て俄に発心し、これを修復するようにと金四百圓を寄付した。寺の衆僧はこれに大変感激し、以後樊鐘秀と連絡を持つようになった。民国十二年(1923年)の秋、呉佩孚は部下の張玉山に命じて登封一帯にて湖北軍第一師別働隊を編成させた。その中の第一旅旅長盧耀堂は、妙興という少林僧の武功が優れている事、そして少林寺は銃器を多く保持しているという事を知り、妙興に強く参軍を促した。こうして少林寺保衛団の兵力は、妙興を団長とした第一旅第一団に編入される事となった。しかしこれら一連の巡り合わせが、後々少林寺に最大の災厄を招く一因ともなる。妙興は民国十六年(1927年)、舞陽で馮玉祥配下の任応岐率いる部隊と交戦中に戦死、享年僅か37歳であった。妙興の遺体は、少林寺の弟子達によって持ち帰られ、師父の恒林と同じ寺の東北にある山に葬られた。
恒林と少林寺保衛団
大雄宝殿前に集結した少林寺保衛団 中央の馬に乗った人物が恒林

・石友三、少林寺を焼く(二八火厄)

 妙興が圓寂した翌年の民国十七年(1928年)、樊鐘秀は馮玉祥の後方を衝き、鞏県(現在の鞏義)及び偃県(偃師)を占領した。しかし程なくして馮配下の石友三に奪回され、やむなく兵を登封にまで退却させ、少林寺院内に司令部を置いた。少林寺僧も樊を幇け援護射撃を行ったが敵わず、逆に石友三によって少林寺にまで追撃される事となる。

 石は樊軍や僧の逃げ出した後の少林寺に火を放ち、更にその翌日には蘇明啓(馮配下国民軍旅長)によって石油が撒かれた。火は一説によると40日間も燃え続け、天王殿、大雄宝殿、緊那羅殿、蔵経閣、六祖堂、閻王殿、龍王殿、鐘楼、鼓楼、香積厨、庫房、東西禅堂、御座などが灰燼に帰した他、経典、儀杖、達磨祖師影石、少林武術の拳譜、『少林寺志』の木版など貴重な宝物が多数失われた。

 この少林寺最大の災厄とそれに到る経緯については、いくつかの説があり一定していない。当時の中国は外国勢力、国民党、共産党、そして軍閥などが複雑に絡み合いながら政治的軍事的闘争を繰り返していた時期であり、少林寺も時代に流れに翻弄されながら、これらの権力間の争いに利用され、巻き込まれていった見るのが妥当であろう。
大雄宝殿 天王殿
二八火厄で焼き払われた後の大雄宝殿(左)と天王殿(左) 『少林寺/美乃美刊』より

・少林武術救国会

 1937年7月、日本軍は進攻の手を中国中原(※主に河南省を指す)にまで伸ばし、嵩山の南北周辺にまで到っていた。そこで豫西(※豫は河南の古い呼び方)特委は積極的に民衆の抗日運動を組織し、豫西抗日縦隊並びに少林区抗日政府を成立し、これに多くの進歩的な青年学生や若い武僧が抗日の戦列に加わった。これが当時中州を震撼させた少林武術救国会である。

 少林武術救国会の設立儀式は登封県東(※当時は県政であった)の関帝廟にて執り行われ、およそ500名の青年学生と少林寺の武僧が参加した。大会では先ず日本侵略軍の罪行が徹底糾弾された。続いて会長、副会長、連絡員、教練員などが選出され、最後に救国会綱領と戦闘のためのスローガン及び会歌が制定された。設立儀式の後は関帝廟を駐屯地とし、登封全県の著名な少林拳師を結集し、少林大小洪拳、通臂拳、炮拳、六合拳、少林棍術、刀術、槍及び擒拿格闘を訓練した。これにより会員達の実戦功夫は大いに向上し、日本軍に打撃を与えるための中核となる隊伍を養成した。

 これらの中核を構成する成員は即時全県各所に赴き、秘密裏に同志を組織し、この組織を一万余人にまで発展させた。後来、この隊伍は逐次発展し、密県、鞏県、偃師、伊川、新鄭、監汝、[さんずい+有]川、禹県など九つの県区に及んだ。救国会は縦隊の指導の下、犠牲を恐れず勇敢に作戦を遂行し、日本軍と漢奸国賊(※売国奴)に深刻な打撃を与えた。この事は、河南人民の抗日闘争史上に輝かしい一頁を記した。

◎少林武術救国会組織成員
 会長:韓希賢
 副会長:凌斗劉景文
 指導員:張建仁、韓進礼

◎少林武術救国会歌
 日冦残如虎狼、占我奉天瀋陽。
 殺我同胞無数、焼盡房屋工廠。
 大家団結起来、抗日救国保家郷。
 寧做槍下鬼、不做亡国奴。

※訳文
 日本和冦の残虐なことは虎や狼の如し、我が国の奉天瀋陽を占領した。
 我々の同胞を殺すこと数知れず、家屋工場を焼き尽くした。
 さあ皆立ち上がろう、抗日に参加し国家を守り、郷里を守れ。
 たとえ銃弾に倒れようとも、亡国の奴隷にはなるまいぞ。

※注:本文は『少林寺武術百科全書(少室山人著/中国:京華出版社)』に掲載されている資料の日本語訳である。抗日戦争(日中戦争)については様々な意見や異論があると思うが、この救国会には当門の先師・凌斗師太爺が参加しており、また近代まで中国武術が実際に戦闘の手段として実際に訓練されていた事を示す資料として興味深い。

・文化大革命

 毛沢東が1966年に発動したプロレタリア文化大革命では、共産党指導による農民と労働者の理想社会建設という名目の元、多くの伝統文化や宗教が「封建的」というレッテルを貼られ、弾圧、破壊された。少林寺も紅衛兵に幾度となく踏み込まれ、寺の文物は破壊され、僧は「宗教は人民を惑わす毒である」、「人民を搾取する」等の理由で批判大会にかけられた。このため多くの僧が、強制的に還俗させられたり、自ら難を逃れて寺を離れたりし、少林寺はこの時期半ば廃墟のようになっていた。寺には僅かに行正徳禅素喜等が残り、細々と伽藍を護っていた。武術もまた「師弟関係は封建的なものである」事から、おおっぴらに練功する事が出来なくなり、この時期多くの古くから伝わってきた拳譜や兵器が燃やされたり壊されたりして失われた(追求を恐れて、自ら破棄したものも多い)。

・登封県第十五中学武術専修班

 文化大革命の嵐がようやく収まり、世間に平穏が戻った1979年、少林寺(登封)で最も早期の武術専修学校である登封県第十五中学武術専修班が開設された。校長の王超凡をはじめ、呂学礼王宗仁、鄭書記といった錚々たる伝統少林拳師の面々を教練として擁し、後の少林武術界に於いて活躍する優秀な人材を数多く輩出した。卒業生には現地体育委員会の幹部になったり、武術学校を創立して校長となった者も多い。第十五中学と同時期にあった武術学校に登封県少林武術体校がある。こちらは県体委の主幹で、梁以全が校長兼総教練を務めていた。

・日本少林寺拳法訪中団を迎える

 1977年、日本少林寺拳法連盟は少林寺に「帰山朝聖」を行う旨の要求を提出した。これを受け登封県革委(革命委員会)は、日方を迎えるための表演、並びに各種の交流活動に関する準備を速やかに開始した。登封県体委では当時の少林武術界を代表する老拳師と新進気鋭の青年拳師からなる表演隊を組織し、来たる交流の日に備え厳しい訓練を繰り返した。1979年4月14日、宗道臣を長とする日本少林寺拳法代表団が少林寺を訪れ帰山朝聖を行い、同時に座談会、表演会などの各種交流活動が催された。寺内では名誉方丈の徳禅を主に、行正、妙性、素喜等が接待を司った。表演会は日本少林寺拳法と登封体委からそれぞれ代表を選出して行われ、登封からは梁以全揚聚才王超凡安振喜陳五経王宗仁耿合営焦紅波、鄭光栄、鄭書敏、王松偉、梁松華、梁継紅等の拳師が出場し、少林拳の精髄を披露した。これは文革以後、初めて国外の団体と行われた最も大規模な交流であり、この交流の成功は、後の少林武術界の発展に極めて大きな影響を与える事となった。

宗道臣と少林寺僧
「帰山朝聖」を行った宗道臣(向かって一番左)と少林寺僧

・映画『少林寺』と少林寺ブーム

 82年に公開された李連杰(ジェット・リー)主演の映画『少林寺』は、公開と同時に中国全土で一大「少林寺ブーム」を巻き起こした。新中国成立後、すっかり寂れ果て香煙の絶えて久しい少林寺に、映画を機として俄に全国各地から観光客が押し寄せ、寺の門前には弟子入りを願い座り込む人の姿がしばしば見受けられた。同時に少林寺周辺には武術学校が相次いで建てられ、ここにも全国から映画を見て少林武術に憧れた少年少女が集まってきた。当時は文革などの影響で武術を教える事が出来る寺僧が殆どいなかった事もあり(僅かにいても様々な原因で教えなかった)、現地の民間武術家の設立した武術学校が、彼らの受け入れ先となるかたちになった。門前町にはこれらの武術学校と、武術学校の学生や観光客らを相手にする旅館や食堂、土産物売りが軒を連ね、それまで内地の農村に過ぎなかった少林村は一気に世界的に有名な観光地に変貌し、これらの変化は麓の登封市にも大きな経済効果をもたらした。このような状況の中、初期の武術学校は現地の民間拳師が設立したものが殆どだったが、その経済効果の大きさが認識されるにつれ、「人を騙して武術の飯を喰う者」が多く現れ、指導者も学習環境も劣悪な学校が多く出現し、問題となったりもした。

 余談であるが、主演の李連杰は少林寺で修行をした事はない。現地では今でも、李連杰が真正の少林弟子であると信じている学生が多いが、実際のところ李連杰が学んだのは北京武術隊である。映画の中で表演しているものも少林拳ではない。

・少林拳の規範化と普及

 70年後半から80年前半にかけて、中国の国家体育局は中国武術の大規模な普及活動を積極的に推し進めていた。これに応じて登封でも現地体育委員会の主導により、少林拳の「規範化と普及」が検討模索され、この活動は82年の少林寺ブームによって更に加速された。規範化とは、例を挙げるとこれまで少林寺及び登封地区ではひとつの「小洪拳」をとっても伝承系統や拳師によって差異が存在し、それぞれが独特の風格と解釈を持っていたものを、ひとつに統一し規範を制定するという考え方である。套路を規範化する事によって指導者は教えやすく、学生は学びやすくなる他、普及という目標実現に欠かすことの出来ない要素である「競技化」に関して、套路を統一して客観的な審判を行えるようにする事は、必須の条件であると考えられた。

 套路の規範化は初め登封体委で実験的に行われ、ひとつの拳について数名の拳師が集まり内容を検討し、統一した動作や理論を制定していった。後にあちこちの武術学校でも、集団教授方式の必要から、規範化された套路が教授されるようになっていった。しかしこうして規範化された套路は、初期の内こそ伝統的な風格や武術としての意義を保持していたものの、競技で点数が競われるようになると、動作はより速く、大きく、美しくと外観に重点が置かれるようになり、次第にその形を変えていった。規範化と競技化によって、当初の目的である「普及」という点は達成されたが、この事は現地の少林拳を大きく変えるきっかけとなった。これ以後、少林寺および登封地区で見られる少林拳の9割方が、競技のために表演(見た目の美しさ)に偏重した少林拳のみで、伝統拳が全く省みられないという状態が長く続く事となる。

※80年初頭から90年初頭にかけて、伝統拳の規範化と同様の意味合いで、いくつかの新しい套路が編纂された。新編羅漢拳(羅漢拳二路とも言われる)、二十四式小洪拳、少林拳系列(少林拳、少林棍、少林刀、少林槍、少林剣)などがその代表である。

・少林寺武術発掘整理小組

 1983年、全国伝統武術発掘整理の動きに応じて、少林寺でも少林寺武術発掘整理小組が組織された。半年間で十数回の会議を開き、四十数本の武術資料を収集し、これらの成果は『少林武術要略』、『少林拳法秘伝』等の書籍として出版発表された。戦争や文革の混乱後、はじめて少林武術を調査したという意味では十分に意義のある活動であったが、調査の範囲も限られていた上に内容としては套路や功法の名称、拳訣などを採集するに留まり、伝承地域や経路、伝承者本人についての具体的な取材研究はあまり重視されなかったようである。その成果に関しても結局一部しか発表されず全体として不足の感があったが、最近になってやっと、発掘整理の際におそらく登封体委が撮影したと思われる映像が再発見(?)され、少林拳ではない門派を扱ったVCDの巻末に収録されて中国で発売された。
少林拳術秘傳 少林武術要略 発掘整理映像
少林拳術秘傳(左) 少林武術要略(中) 発掘整理の映像(左)