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少林門の研究-歴史(現代)-

 この章で述べる所謂歴史は、現在進行形の事柄を多く含む。そのため内容は多分にニュース的になる事を免れない。方丈昇座後の永信は精力的に改革開放を行い、少林寺の改革、近代化を推し進めている。これらについては現時点でも様々な議論を呼んでいるがこれに客観的な評価が下されるのはまだまだ後の時代になってからであろう。

・永信和尚、新方丈に昇座する

 1999年8月19日。
永信昇座 永信昇座

・少林寺大改築(1)

 2002年、登封市政府及び河南省当該部門の決定により、少林寺地区の大規模な改修計画が発動された。この計画の主要な目的は、少林寺に元来の「深山蔵古寺、碧渓鎖少林」の面目を取り戻し、国内外の人々がイメージする古の「禅宗祖庭」を再現する事にある。そして、これまで年間100~150万人だった観光客数を、将来的には1500万人にまで到達させ、登封及び河南省の観光経済を大幅に発展させる事ができるとされている。

 計画は清華大学城市規劃研究院(清華大学都市計画研究院)の提出した計画書に則って実行され、第一歩として「東は郭店村、西は塔林水庫、南は南照村、北は初祖庵」の範囲にあるほぼ全ての農家、商店、武術学校、旅館等に対し、立ち退きが命じられた。その数は300戸以上の農家、11校の武術学校、100数軒の商店、25部門の企業に及び、過去最大規模の大移動が実施された。

 立ち退きが完了した後の建物は即刻取り壊されたが、当初50日で全ての退去を完了するという急ピッチの計画だったために、ある農民はまだ行き先の決まっていない内に家を強制解体されるなどの問題が出た。武術学校や商店、旅館についても、移動のための費用やその後の経済的な補償などが不十分なまま、半ば強引に計画が実施された感が否めない。また、現地農民の畑は依然として少林村にあるため、彼らは毎日5角を払ってバスに乗って来なければならない。政府の対応としては、移住先として登封市区郊外に少林新村という居住地を開発した他、少林寺対面、少室山内の王指溝という外から見えない場所(つまり少林寺の景観に影響しない場所)にも新村を開発した。こちらの王指溝には以前少林村で開業していた旅館や食堂の一部が移転し、営業を続けている。

 その後は少林地区全域で植林などによって緑化が進められ、少林寺対面の少渓河も以前は生活排水やゴミで汚れていたが、綺麗に清掃され水質が改善された。門前町の入り口、迎賓僧の近くには中国の古い建築を模した「武術城」が建設され、ここでは観光客が買い物を楽しんだり、様々なイベントを観覧する事が出来るようになった。

・少林寺大改築(2)

 前述の少林寺地区大整理に引き続いて、2004年より少林寺全院の大規模な改修が開始された。院内の大規模な改修が行われたのは1979年及び1982年以来、三回目となる。改修は歴史的な資料を基に、前二回と比べて更に細緻に本来の姿を再現した。この資料の中には1991年、永信方丈が日本の京都達磨寺を訪問した際に偶然発見した、関野貞という日本人によって1920年に撮影された少林寺の写真も含まれている。この写真には1928年に石友三によって少林寺が焼き討ちされる前の姿が残されている。

 大改修は広範囲に及び、山門から院内の大殿、石碑から天王殿前にある樹齢1000年の銀杏まで含まれる。山門前の階段は青石から象眼石に変えられ、門前に立つ二本の旗杆(明代に倭寇を討った小山の功を記念して皇帝の命で建てられた)もより古い北魏?時代の風格に修復された。山門東側の派出所が使用していた小四合院造りの建築は、元は観音庵という政府の高官を迎える場所であったので、これも本来の姿に戻された。院内では八座の殿堂が大なり小なり改修され、特に千仏殿や白衣殿の壁画は専門の修復師によって補修が施された。以前は境内の両側にあった僧坊は、観光客と隔離された安静な場所に移動した。その他院内にある北斉、唐、宋、金、元、明、清代の180枚以上に上る歴史的な石碑は整理され、現代に建てられた新しい石碑は院外に移転、今後院内に新しく石碑を建てることは出来なくなった。

 建築や石碑の改修以外に、今回の改修では寺全体の防火対策に力が入れられた。先の二八火厄の際は院内の消火設備、特に水源が貧弱だった事、そして建築間に密集して植えられた柏の樹が、炎が全寺に延焼する原因となった。そのため、今回の計画では防火の妨げになる雑多な小建築を排除、通路を確保し、防火規定に応じてそれぞれの場所に消火栓を設置した。

 今回の大改修の総費用は5000万元。登封市が500万元、鄭州市が500万元を出資し、残りは全て少林寺が負担した。永信方丈によると、これまで同時に受け入れらる観光客数が3000人だったところを、改修後は一気に10000人にまで拡張されるという。

・少林寺の名前を世界で商標登録する

 古今、少林寺の名前は広く世間に知られ、そのため中国国内にも多くの少林寺の名声を利用した商品が存在している。その内容は、武術学校、旅館、車、電線、家具、ビール等様々であるが、その殆どが少林寺とは何ら直接の関係がない。この中で特に少林寺を怒らせたのが「少林火腿腸(ソーセージ)」という商品である。少林火腿腸のテレビCMは、少林寺山門から「少林、少林、少林火腿腸」等と連呼しながら、ソーセージが飛び出て来るという、禅宗聖地を任ずる少林寺の僧侶達にとっては甚だ屈辱的な内容であり、これは民間企業の少林寺に対する無形財産権と名誉を侵害する象徴的な事例となった。この様な現状を打開するため、少林寺は1998年7月、少林寺実業発展有限公司を設立し、国内での商標権取得と保護に乗り出した。また国外のある国においては、既に別の団体や企業が「少林寺」の商標権を取得していたため、本場少林寺が派遣した武僧団が「少林寺」を名乗れないと言う事例があり、これに対しても各国で商標登録の申請を随時行っている。

・民間伝統少林功夫保護工程

 2005年、登封民間に流伝した武術功法を保護するため、「民間伝統少林武術緊急保護工程」が発動された。現地では過去二回に渡って伝統少林武術の発掘整理を実施して来たが、今回は最も規模の大きな一回である。調査は唐庄郷磨溝村、石道郷阮村など、登封境内に散在する「武術村」の老拳師を対象に行い、民間伝統少林武術の套路や功法を収集する。収集した内容について伝承経路を遡り、独特の所や、相互間の差異を検討する他、歴代の著名な民間拳師の逸話なども収集する。今後三年の調査期間を経て、これらの成果は『嵩山民間伝統少林武術集成』として一冊の本に纏められる。また永信方丈によると、全工程が完了した後に蔵武洞を建て、寺内及び民間伝統少林功夫の集大成を洞壁もしくは石碑に刻み、そこを少林武術の「最高学府」とする計画があるとの事である。

 2005年末の『鄭州晩報』で「民間伝統少林武術緊急保護工程」が報じられた後、登封に散在する「武術村」では俄に伝統少林武術熱が盛り上がりを見せている。ここ20年近く殆ど行われなくなっていた「武社」と呼ばれる民間の武術活動や、春節に農村で行われる民間拳師の表演会が一部で復活してきているという。

・伝統拳の復興

 上記の「民間伝統少林武術緊急保護工程」以外にも、ここ数年の少林武術界では伝統の少林拳やその歴史、伝承を改めて見直す動きがあちこちで見え始めている。最近登封で行われた武術比賽には「伝統」の二文字を冠したものが多く見受けられ、多くの武術学校でも套路の打ち方を80年代以降の美観主体のものより、伝統的な風格を出すように指導しているようである。また2006年5月には登封市体委の主導により、「伝統少林拳規範套路培訓班」が実施され、登封市内にある武術学校の教練に対し、伝統少林拳套路の教授が行われた。培訓班では小洪拳、大洪拳、太祖長拳、七星拳、長護心意門拳、羅漢拳、六合拳、六合棍、斉眉棍等の伝統套路について規範が示された。

 少林寺の武僧団でも外部に向けて行う表演に関して、以前はアクロバティックな套路や硬気功のようなショー的な内容が多かったのに対し、昨今では本来の大洪拳や炮拳など伝統套路を見せる方向に路線を変更したようである。2006年にアメリカの武術団体が100名もの会員を率いて少林寺を訪れた時なども、これまでと同様の「鉄頭功」や「蛇拳」など見栄えのするものに加えて中年以降の武僧による七星拳、炮拳、柔拳などの表演を織り交ぜて行った。また2006年末にNHKのBSで放映された番組の取材に際しても、少林寺武僧による伝統的な大洪拳、炮拳、柔拳だけでなく、梁以全による虎撲把や駱駝崖(梁以全の故郷)の民間拳師の様子まで収録された。

 それ以外にもインターネットでは、呉山林李根生など、今まで名前は知られていたが具体的な伝承があまり語られなかった系統についての論文や資料が発表され始めてきている他、登封にあるいくつかの「武術村」についても調査が進んでいる模様が現地の『鄭州晩報』や論壇(ネットの掲示板)などで報じられている。

・素喜大和尚圓寂

素喜和尚葬礼 素喜和尚葬礼