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少林拳の研究-名人録-


湛挙
 字を古輪という。乾隆五十五年(1790年)、少林寺に出家し海参に弟子入りした。禅の修行に励む傍ら武術の研鑽も重ね、六合拳、六合棍、六合槍等を次々と修得していった。武技の研鑽の為、湛挙は度々山を下りて各地を遊行し、三年に渡って十五の州府を訪ね、三十数名の武林高手の教えを受けた。寺に於いては常時千仏殿で夜を通して苦練し、特に心意把に優れていたために衆僧から「心意把之王」と称された。湛挙の弟子に対する要求は厳格で、熱心に弟子の教育をしただけでなく、常に彼らの衣食病苦に注意を払い、家族のように親しく接した。その為、湛挙に就いて学んだ者達は皆「父師」として、師を敬い、その数は僧俗合わせて数百名に上った。その中でも特に武功が高強な者には寂聚、寂袍、寂敬等がいる。湛挙の遺稿には『少林寺六合拳譜』、『六合刀譜』、『六合槍譜』、『三十六散手』等がある。
寂勤(1831~1914)
 俗性を呉、号を古倫という。五歳で湛謨に従って少林寺に出家した。当時は清朝によって民間人が武術の訓練をする事が禁止されていたため、少林寺の僧等は夜中に人知れず練功を行っていた。しかし道光年間に巡視麟慶慕が少林寺を訪れた際、成り行きで巡視の前で演武する事になり(現在白衣殿にある壁画はこの出来事の再現であるとも言われる)、これが原因で少林寺に災いが及ぶことを恐れ、湛謨師徒等は少林寺下院の石溝寺に隠れ、ここで引き続き武術の研究に専心した。湛謨に就いて数十年、硬、軟、軽、気の各種功法を極めた後、寂勤は寺を出て還俗した。この事は一説に「少林寺での失伝を防ぐため、民間にて武術を継承させた」と言われている。寂勤の功夫は嫡子呉山林に継承され、奇しくも呉山林は後に少林寺監院貞緒によって招聘され、その芸を寺に還す事となる。
恒林(1865~1923)
 伊川県宋寨の人。号を雲松、俗性を宋という。光緒初年(1875年)に少林寺に入り、延楽に拝師した。民国初年(1912年)、登封県僧会司に任ぜられ、毎回壇に登る度、恒林の説法に感服しない者はいなかった。また武術にも優れ、長期に渡って少林寺の武僧教頭を務めた。民国初期、清朝の崩壊や軍閥戦争などにより世の中は大いに乱れ、巷には土匪が跋扈し、村々を襲っては略奪を繰り返していた。その為少林寺では恒林を団総とした保衛団を組織し、近隣村鎮の守護に当たらせた。これは少林寺の歴史上で初めての銃火器を装備した武僧集団である。恒林の弟子には妙興、妙聚等がいる。
少林寺保衛団 「少林活佛」の額
大雄宝殿前に集結した少林寺保衛団(左)
恒林に贈られた「少林活佛」の額(右)

『菩提達磨嵩山史蹟大観/鷲尾順敬監修』より
貞俊(1865~1939)
 俗性を李、号を秀山という。河南省偃師県溝斯鎮玉湾村の人。1872年、少林寺下院石溝寺に出家し、淳陽の門下に入った。後の光緒五年(1872年)、少林寺に入り寂然の下で武術を学び苦練した末、大洪拳、通背拳、炮拳、心意把等の他、気功、軽功等にも長じた。貞俊は民国年間の少林寺に於いて、恒林貞緒等と並び寺を代表する武僧として重要な役割を担った。行書徳禅張廣俊等は貞俊の教えを受けた主要な人物である。遺稿に『少林七十二芸』がある。
貞俊
『少林武術百科全書/少室山人著』より
凌斗(1872~1954)
 登封県唐庄郷凌家門の人 大名を慶甫という。登封県唐庄郷磨溝村の拳師、范朝元の娘と結婚し、岳父(范朝元)に就いて挪挪爺(緊那羅)が伝えたとされる現地の少林拳を学んだ。凌斗は功成った後、磨溝の拳に独自の創意工夫を加え、少林寺村の王頂一、劉豊臣等にその精華を伝えた。凌斗は家は貧しく生活も質素であったが、その功夫の高さは登封県城及び少林寺で多くの人の賞讃するところであり、現地武術家の間では今でもいくつかの逸話を耳にすることが出来る。抗日戦争時には少林武術救国会に副会長として参加し、日本軍に抵抗する部隊を組織し指導した。磨溝を源流とし、凌斗が精錬した独特の少林拳であるこの一枝は、現在では王頂一の甥である王宗仁の代に至り継承されている。
呉山林(1875~1970)
 偃師県仏光郷栢峪村の人。少林寺還俗僧寂勤の子。幼い頃より父に従い、少林寺由来の功夫を積んだ。1930年代、主に二八火厄等の原因によって衰退した少林武術を復興させるため、当時監院であった貞緒の要請に応じて寺に入り、僧衆を組織して3年間武術を教授した。そのため、呉山林は父寂勤から学んだ少林寺嫡伝武術を寺に還し、失伝の危機を救った大恩人であると伝えられている(※一説には僧の中で武徳の不良なる者がいたのに憤慨し、全ての功夫を教授し終える前に寺を離れていたとも言われている)。1963年に著名太極拳家の李天驥が少林寺を訪れた際には、88歳の高齢にも関わらず心意把の用法を示し、その功力は全く衰えを感じさせず人々を驚嘆させたという。

 呉山林は当時の寺僧に高度な啓発を与え、少林武術復興に重要な役割を果たした。また、民間でも呉山林に師事したりその教えに触れた事のある者は数多く、それ故、少林寺武術界では近代の伝説的な拳師として、その功夫と人柄が広く語り継がれている。呉山林に教えを受けた事があると言われる主要な人物には、貞緒、徳根、行章、行勝、素祥(王天仁)徳禅行正石永文刁卿俊(行書)王超凡揚聚才揚桂吾、郝釋斎などがおり、その中でも呉有徳(呉山林の子)、橋黒宝(呉山林の外甥)、張慶賀(呉山林の徒弟)、徳建(張慶賀の徒弟)、呉南方(呉山林の曾孫)と連なる一枝が呉山林の嫡伝を継ぐものであると主張している。
呉山林
『嵩山訪禅記/趙国成等著』より
妙興(1891~1927)
 臨汝謝湾の人。字を豪文という。幼い頃に家の貧困の為、八歳で出家し、恒林を師と拝し参禅習武に励んだ。妙興は文武両方面で才能を発揮し、その実力は群僧より抜きん出ていた。凡そ在家の拳師で少林寺に腕試しに来る者はまず妙興と比武し、これに敵う者は誰もいなかったという。その為人々は妙興に金羅漢という綽名を贈り、賞賛した。また、妙興はこれまでの「不外伝(武術を外に伝えず)」の慣習を打破し、少林寺嫡伝の武功を多くの俗家弟子(在家弟子)に教授した。

 民国十二年(1823年)に師父の恒林が圓寂すると、登封県僧会司、少林寺当家和尚、保衛団団総等の職務を妙興が引き継いだ。同年、保衛団は軍閥呉佩孚麾下の第一旅第一団として編入され、妙興はその団長として参軍した。民国十六年(1927年)、妙興は第一団を率いて舞陽に赴き、馮玉祥配下の任応岐部隊と交戦中に戦死した。享年僅か37歳であった。
妙興羅漢拳訣
妙興の筆による羅漢拳訣
貞緒(1893~1955)
 鞏県魯庄南村の人。俗性を李、名を正印、字を耀宗という。少林寺第二十九世住持。光緒十九年(1893年)、少林寺下院の龍興寺に出家し、淳智を師と拝した。後に民国九年、師父に従って少林寺に戻り、恒林に就いて少林武功を学んだ。大小洪拳、通臂拳、六合拳、炮拳、春秋大刀等に長じ、特に鉄身靠と踢千斤の功法は衆僧の群を抜いていた。貞緒は近代少林寺の中でも中心的、指導的な役割をよく果たしており、貞緒の教えを受けた者は僧俗を問わず数多くいる。その中でも民間では偃師市柴溝に住んでいる外甥の柴宗漢が、院内では素喜が比較的有名である。

 貞緒は石友三の焼き討ちや長期に渡る動乱によって衰退した少林寺院及び少林寺武術の復興に積極的に参与した。寺僧や在家衆と協力して、前後して初祖庵、方丈室、千仏殿、立雪亭等を修復し、天王殿から法堂にかけて200本の柏を植樹した。1930年代には還俗和尚寂勤の嫡子呉山林を寺に招聘し、徳根、行勝、素祥等40数名の武僧を訓練し、衰退しかけていた寺の武術を再び豊富なものにするべく尽力した。民国三十年(1941年)には素典、徳禅、永貴等と共同で少林中学を設立し、校長に任命された。この学校は民国三十一年に正式に開校し、1949年まで継続され、地元子弟の文化教育に大きく貢献した。
李根生(1893~1962)
 登封市大金店鎮箭溝村の人。又の名を李侠、字を光明という。李根生の家は代々武術を生業とする名家でもなく、幼い頃から武術の訓練を受けていた訳でもない。25歳になって初めて民間少林武師の白作楝に師事し、後に「少林活仏」と称された恒林を拝して少林武術を学んだ。恒林の門下で苦練を積み、常に妙興、妙聚、貞緒等の名僧と共に切磋交流し、遂には人々を驚嘆せしめる深い功夫を身に付けた。功成った後、1930~1940年代には大金店の雷村、書堂溝及び文村等で教場を開設し、広く徒弟を育成した。李根生の弟子で有名な者には、長男李青雲、張八、申狗屎、白発松がいる他、当時年若く、現在健在である者に郝釋斎(郝路)、崔西岐、雷文章がいる。李根生が撒いた功夫の種子は少林武術界に広く根を下ろし、故郷の大金店地区に於いては民間の拳師達がその伝を受け継いでいる他、陳同山(小龍武院)、陳建立(少林寺天門武校)、鄭忠孝(少林武術研究院)、王長青(国際武院)、金欽紅等がいずれも登封市内で武術学校を創設し、少林武術の普及に寄与している。
李根生
『少林龍之門/岳暁鋒著』より
劉景文(1900~1940)
 登封市少林寺塔溝村の人。幼い頃より祖父及び父より家伝少林武術の教えを受け、12歳になる頃には三十八の套路と十八般武芸を修得していた。1917年に少林寺の書記に任じられ、寺の財務帳簿を管理した。昼間は寺の執務を行い、夜には貞緒貞俊等の高僧に就いて功夫を学び、擒拿や点穴等に精通した。1935年には南京で行われた国術擂台賽に参加し、重量級で第一位を獲得した。劉景文は少林武術の発揚に尽力したが、過労が祟ってか病を得、1940年に40歳という若さで世を去った。息子の劉宝山は当時まだ幼かったが、父の遺志をよく受け継ぎ、後に塔溝武術学校を創始し少林武術を大いに振興した。
許世友(1905~1986)
 許世友は中国共産党人民解放軍の有名な将軍で、毛沢東の死にも立ち会った人物である。かつて少林寺で武術を学んだと言われており、これについてはいくつかの説が流伝しており、内容はまちまちである。

 「少林寺に出家し院内で学んだと」いう説によると、許世友は宣統三年(1911年)、少林寺に出家し、雑役を務めながら寺僧に武術を学んだとされている。その後1920年、家族を訪ねて故郷に戻った際、兄が現地のならず者に襲われているのを見て激怒し、ならず者を打ち殺してしまったため、寺門に累が及ぶのを恐れた許は軍閥呉佩孚の部隊に身を寄せ兵となった。しかしここでも上官の嫌がらせに憤慨しこれを蹴り殺してしまったため、県府から追われる身となり、仕方なく少林寺に戻った。当時の監院は寺全体のためを考慮し、やむなく許世友に金子を持たせ寺から送り出したが、寺の若い僧達は普段より許世友の義侠心、苦練の精神に敬服していたため、皆涙ながらにこれを見送った。そして許に「友」の字を贈り、許はこれ以来「釋友」、つまり「仏門の友」と名乗るようになったという(注:「世」と「釋」は中国語では同音)。
許世友 許世友
徳禅(1907~1993)
 登封市関鎮左庄村の人。俗性を劉、幼名を二保という。1916年に素光を拝し少林寺に入り、仏学を学ぶと共に武術、医術を深く修めた。

 1979年、日本少林寺拳法連盟の宗道臣が少林寺を訪問し、「帰山記念碑」を建立した。その際、寺を代表してこれを接待したのが徳禅である。宗道臣は徳禅と親しく会談し、その娘である宗由貴は徳禅を義父として拝した。1980年に宗道臣が亡くなった後は、宗由貴が訪問団を組織して毎年少林寺に参拝している。

 1986年、少林寺は長期に渡って方丈が不在であるという現状を解決するため、新たに方丈を選出する事になった。その際、徳禅は名利を争う事を好まず、「自分は年齢も高く、永らく病を患っているので適任ではない」と言ってこれを辞退したため、行正が方丈、徳禅は名誉方丈に任ぜられた。しかし1987年に行正が癌を患い圓寂してしまったため、徳禅は名誉方丈の職名のまま、少林寺の仏事や外交を主宰する事となった。
徳禅 徳禅
『少林寺/美乃美刊』より(左)
王頂一(1908~1976)
 登封市少林寺南沼溝村の人。著名武術大師凌斗を師と拝し、長護心意門拳、七星拳などの功夫を得て大成した。凌斗が武術を教える時、普段は凌斗が少林寺村まで赴いて王頂一を教えていたが、農繁期には度々磨溝に赴いては師父の農業を手伝い、またその合間には武術の教えを受けていたという。その為、今でも磨溝の老人には当時少林村の王頂一が、村をよく訪れていた事を覚えている者も多い。抗日戦争や内戦、文革などの混乱により、少林寺に武術が出来るものが殆どいなかった時期、当地を代表して各地を訪れ少林武術の教授をした。晩年は少林寺村で徒弟を育成し、甥の王宗仁に全伝を与えた。
王頂一 王頂一
呂学礼(1908~1989)
 登封県石道郷崗村の人。幼少の頃より村人が武術を練習するのを見て影響を受け、後に伯父の呂銀山、叔父の呂西朝に武術の基本功を学んだ。17歳で開封中州中学に入学するが、二年後に経済的な理由から退学。故郷に戻り農業に従事する傍ら、伯父と叔父より更に各種拳術兵器を学び、時には少林寺に行って武僧が練功するのを見学したりしていた。1927年、河南省国術館の第三期国術訓練班に優秀な成績で入学し、卒業後は主に実豊県保安隊、国民党中央軍一〇二師司令部等で国術教官を務め、その後抗日戦争にも従軍した。解放後の1979年には王超凡の創立した第十五中学に招かれ、武術教練を務めた。呂学礼は武術の功夫が優れていただけではなく、その人柄や思想にも人を惹き付けるものがあった。そのため現在でも少林寺当地では、呂学礼の名は彼に対する尊敬の念と共に、多くの拳師や民衆の口頭に上るのである。
呂学礼
『少林寺拳法教範』より。
79年に宗道臣氏が少林寺を訪問した際、登封の代表団として拳を示した。
永祥(1913~1987)
 吉林省長春市の人。俗性を王、名を文斌という。1920年、家庭の貧困から故郷を離れ、少林寺に到って僧となった。行令和尚を拝し、永祥の法号を賜る。民国中期、軍閥の混戦や土匪の襲撃によって寺内の拳譜が失われるのを憂慮した永祥は、貞緒と徳禅の支持を得て少林拳譜四十二巻を筆写した。1926年、父死去の報を受け、永祥は寺を離れ故郷に帰った。この2年後の1928年に軍閥石友三によって少林寺が焼き討ちに遭い、院内の貴重な文物と共に多くの拳譜が失われたが、十数年後に永祥が寺に戻った際、吉林に持ち帰っていた拳譜の写しを元に『少林拳譜新編』として復刻されたと言われている。
徳根(1914~1970)
 鞏県関帝廟の人。俗性を韓という。六歳で少林寺下院の炒米寺に入り、素端を師と拝した。十六歳で少林寺に回帰し、先に貞緒について各種武功を学び、その後呉山林に教えを受けた。徳根はこれら名師の教えをよく吸収し、また常に院内の師兄弟等と切磋琢磨した結果、当地に於いて保持している套路数が最も多い武僧となり、1946年には少林寺南院及び西院の武僧教頭に任じられた。院内の僧を教授すること三十余人、揚聚才刁卿俊(行書)王天仁(素祥)などは皆この当時の学生である。

 解放後は還俗し河南省歌舞団や登封教育局、大金店及び鞏県他各地で教授を行い、ここでも多くの武術人材を育成した。揚桂吾劉存良劉振海、安振喜、王西乾石永文朱天喜耿合営、鄭進宝、陳秋菊、等はその代表であり、これらの人物は皆、後の少林寺武術界に於ける主流派となった。1963年には登封県文教局の委託を受け、徳根口述、王欣淼記録による、新中国成立後初めての完備された少林拳専書である『少林武術概要』を出版した。1970年、肺病により圓寂。享年五十六歳。登封県の廬店に葬られたが、程なくして故郷の鞏県関帝廟に移葬された。 
徳根 徳根と李天驥
『少林寺羅漢拳/釋永文著』より(左) 徳根と李天驥(右)
行正(1914~1987)
 登封県関鎮劉庄村の人。俗性を李、名を太保、字を愿安という。6歳の時に少林寺に出家、徳宝の弟子として収められ、行正の法号を賜った。元来資質聡明な行正は、師父徳宝及び師爺素典の寵愛を受け、よく仏門の修行に励んだ。1928年、軍閥石友三によって少林寺は焼き討ちに遭い、寺は過去最大の損害を被った。年僅か13歳の行正は他の僧衆と協力して貴重な文物法具を救うべく奮闘し、瓦礫の山となった寺から辛抱強く仏像や石碑を掘り出した。1966年に始まった文革の混乱時には、多くの僧が難を逃れて寺を離れる中、行正は数名の僧と院内に残って仏像や経典等を隠し、再びこれらの危機を救った。

 文革が収まった後は、院内の僧を組織し、正常な寺の宗教生活が回復出来るよう、積極的に活動した。また、1983年には徳禅素喜等の僧と共同して少林寺武術発掘整理小組を組織し責任者を務めた他、1986年には少林寺拳譜編写組組長を任じる等、伝統少林武術の発掘保存にも大きく貢献した。1986年、少林曹洞正宗第二十九代方丈に昇座したが、これは清朝初年に方丈制度が中断されて以来、実に300年ぶりの方丈職の復活となった。このように行正の一生は、少林寺の保護と継承、そして混乱からの回復に捧げられたが、1987年に病を得、治療も功を奏さず圓寂した。世間の混乱、そして若くして両目を失明するという困難の中でも常に寺の現状と未来を想って止まなかった行正の遺志は、その弟子の永信(現少林寺方丈)によって受け継がれている。
行正
張廣俊(1914~?)
 登封県大金店鎮雷村の人。法号を徳広という。幼少より武術を好み、李根生に就いて少林武術を学んだ。青年になってからは少林寺に赴き、貞俊貞緒等に教えを受け、大刀、炮拳、長拳、梅花拳等に長じた。1986年、開封で行われた河南武術比賽に参加して優勝し、同年徐州で行われた全国武術比賽では金賞を受賞した。1988年には登封県武術協会から十佳老拳師の称号を贈られた。
行書(1916~1989)
 登封県関鎮郭店村の人。俗名を刁卿俊という。幼少の頃、家庭が貧困で父母が早逝したため、少林寺の和尚によって寺に引き取られた。その後、徳立に就いて正式に帰宗し、行書の法号を賜った。行書は師父に就いて苦練し、少林武術の基礎を堅固なものにした後も、引き続いて貞緒呉山林徳根等の名師に教えを請うて功を高めた。そのため、16歳になる頃には寺の諸師が演練する全ての套路と十八般武芸を修め、寺主及び衆僧の賞讃と寵愛を受けた。1945年、少林寺抗日政府が成立すると、行書は師父に背いて密かに抗日小分隊に参加し、その活躍ぶりから「小燕青」と綽名された。解放後は還俗し郷里で農業に従事し、農閑期には広く門徒を受け入れ伝芸に務めた。刁卿俊の教えを受けた者の中では、刁山多、陸海龍等が有名である。、刁山多は刁卿俊が還俗後にもうけた子であり、刁卿俊の功夫を継ぐ代表人物である。
崔西岐(1922~)
 幼い頃、祖父及び父親の指導の元、家伝の武術を学び、後に李根生を拝し更なる功夫の深淵に到達した。かつて登封市十佳拳師、河南省十佳拳師の称号を受けた。嵩山少林寺西岐武館館長。
崔西岐
素雲(1923~1999)
 偃師市府郷東口子村の人。俗世を李、名を世法という。1931年、少林寺で僧となり、貞緒の門下に入る。1952年に諸々の事情により還俗したが、1983年には再び少林寺に帰っている。童子功を得意とし、老齢に到ってもその名の如く童子のように柔軟な身体と血色のよい面色を保っていた。1999年に圓寂するまで、素喜と並んで少林寺を代表する老武僧として人々にその名を知られていた。
素雲 素雲
心意把(左) 童子功(右)
素喜(1926~2006)
 登封県関鎮西南街の人。俗名を耿金柱と言う。生家の貧困のため十三歳で出家、貞緒大和尚を拝し素喜の法号を与えられた。師父の貞緒に就いて仏学、武術共に善く修め、功夫の方面では通背拳、小洪拳、双刀等に優れていた。

 文化大革命の時期、行正徳禅等と共に寺に残り、経典や仏像、拳譜等を地下に埋蔵、または場所を移す等の方法で避難させ、貴重な文物を護るために尽力した。文革が終結した後も行正、徳禅と協力して寺を盛り立て、87年に行正、93年に徳禅が圓寂した後は、首座僧として当時空席であった方丈職を代行し、様々な事業に参与すると同時に国内外の賓客等を接見するなど、近代少林寺の復興と発展を支えた。武術の方面に於いては『少林寺秘伝』等の整理、出版に参与した他、積極的に多くの弟子を育成し、その代表には徳揚徳建等がいる。

 1999年に永信が方丈に昇座してからは一線を退き、それでもなお少林寺を代表する老武僧として多くの人々の尊敬を集めていたが、軍閥戦争や文革などで経験した多くの労苦が原因で晩年は健康を害し、2006年3月、常に寺と共にあった激動の生涯に幕を下ろした。素喜和尚帰西の知らせは仏教界、武術界に大きな悲しみをもたらした。葬儀には各界より多数の参列者が集まり厳粛に行われ、遺体は荼毘に付されて少林寺西の塔林に葬られた。
素喜と徳禅 素喜
素喜と徳禅 『少林寺/美乃美刊』より(左)
陳成文(1926~2006)
 登封市大金店郷書堂溝村の人。武術世家に生まれ、幼少より少林武術の薫陶を受けて育った。陳同山、陳同川の二人の息子は共に現代少林武術界を背負って立つ人物に成長し、それぞれ小龍武院(元・少林寺武術学校)の院長、副院長を務めている。また孫の釋小龍(陳同山の子)は国際的に有名なカンフー俳優である。当代少林十大拳師の一人。
陳成文 陳成文
陳五経(1927~)
 登封市大金店郷書堂溝村の人。陳成文とは兄弟である。大洪拳、羅漢拳及び棍術に長じる。1983年、十佳老拳師の称号を受けた。現地を代表する老拳師の一人として2006年に実施された伝統少林拳規範套路培訓班に参与し、教学用の映像資料(内部用)には陳五経の表演による十三槍が収録されている。当代少林十大拳師の一人。
陳五経 陳五経
劉宝山(1930~)
 登封市少林寺塔溝村の人。劉家は六代続く武術名家であり、祖先はいづれも少林寺に縁の深い出家又は俗家の弟子であったと伝えられている。父の劉景文は民国時代、南京で行われた国術考試の重量級試合に於いて第一位を獲得した事のある名人である。劉宝山は幼少より父の劉景文及び当地の名師に就いて少林武術を学び、長護心意門拳、七星拳、六合拳、六合棍、六合槍等に精通した。文革が終わり、世間が落ち着き始めた頃、外地から少林拳を学びに来た数名の若者に教授し始めたのを機に、後に少林寺塔溝武術学校を創立し、現在では学生数2万人を超える世界最大の武術学校に発展した。この様に武術事業の方面で大きな成功を収め、同時に少林寺を代表する民間の老武術家として知られる劉宝山であるが、その人柄は素朴で飾り気がなく、人と接するのに尊大な所がない。伝統少林武術を熱愛し、70半ばに差し掛かる現在でも朝起きると学校内を散歩して、学生達の練功を見るのを日課にしている。現在では表だった舞台からは引退し、武術学校は次男の劉海欽が校長、三男の劉海科が総教練を務めている。当代少林十大拳師の一人。
劉宝山
付志乾(1930~)
 幼い頃に少林寺常住院に入り、少林武術を学んだ。大洪拳、炮拳、行龍刀、六合拳、六合棍等に長じる。1972年に河南省武術比賽で一等賞を獲得し、1983年には十佳老拳師の称号を得た。当代少林十大拳師の一人。
付志乾
王天仁
 偃師府店郷の人。1937年、貞緒を拝し素祥の法号を賜った。1940年に登封県武術運動会で第一名を獲得。解放前、老和尚達の推挙により三ヶ月住持を務めた。人民解放軍に参加、朝鮮戦争で三等功を受章した。偃師武術協会副主席。
王天仁
張慶賀(1931~2004)
 9歳で父母を亡くし、身寄りもなく物乞いの生活を送っていたところ、少林寺下院金剛寺の淳全に出会い門下に収められた。後に淳全の推薦を経て呉山林を拝し、禅、武、医の修行に励んだ結果、遂には寂勤から呉山林に伝えられた少林嫡伝を継承するに至った。張慶賀は武術のみならず医術にも優れ、その高名を頼って訪ねてきた多くの患者を病苦から救った。後に縁あって徳建及び呉南方(呉山林の曾孫)の二人を弟子として得、呉山林の技芸をひとつは少林寺に、もうひとつは呉家に還した。2004年7月に帰西。享年74歳。
張慶賀
『嵩山訪禅記/趙国成等著』より
楊桂吾(1931~2010)
 河南省偃師市の人。法号を行意という。10代前半より徳根に就いて武術を学び始め、師爺の呉山林にも指点を受けた。また、武術と合わせて徳禅に医術を学んだ。一時期現地体育委員会の要請で武術を教授していたが、現在は治療院を開き、多くの患者を治療している。
揚桂吾
心意把 82年に撮影された『少林真功夫』より
梁以全(1931~)
 登封市東金店郷駱駝崖の人。駱駝崖は登封でも有数の「武術之郷」であり、梁家はその中でも代々武術と詩書を伝える大家族であった。梁以全の父親の梁興紹は現地の有名な少林拳師である。梁以全は父や祖父の影響を受け、早い時期から武術の訓練を始め、功夫の基礎を確実なものにした。文革中は右派として農村に下放される等困難な時期を過ごしたが、その様な時にも人目を避けて密かに練功し、家伝の太祖長拳、虎撲把、双刀などの功を深めていった。文革終結後の1979年、日本少林寺拳法連盟の訪中代表団のために表演し賞讃を受け、翌1980年には同連盟の招きにより日本を訪れた。日本から帰国した翌年の1981年に登封県体委武術学校(体校)を創立し、後の少林武術界で活躍する優秀な人材を多数育成した。1995年に登封体委を退職、同時に少林武術専修院を設立し、1997により広大な面積と校舎を持つ少林鵝坡武術専修院にと改編、学校の規模は登封市内でも有数の水準に発展した。少林武術界の重鎮として積極的に活動し、国内外で高い評価と共にその名が広く知られた人物である。後継者には長男梁少宗、次男梁少飛がおり、現在武術学校の運営は彼らによって執り行われている。弟子で有名な者には陳俊傑、馮宏鵬(日本体育大学院卒業)等がいる。当代少林十大拳師の一人。
梁以全
『武術・1993年秋号/福昌堂刊』より
揚聚才(1932~1989)
 登封県関鎮の人。1942年、家の貧困のため少林寺に出家し、行智を拝して永定の法号を賜った。徳根をはじめ、貞緒呉山林の名師に就いて武芸を学び、炮拳、羅漢拳、大刀等に長じた。1948年、寺を出て人民解放軍に参加し、復員後は登封県体育委員会教練、登封県武術学会副主席等を務めた。著作には『少林大洪拳』がある。
劉振海(1933~)
 登封県大金店の人。幼少より武術を熱愛し、徳根を拝し小洪拳、炮拳などの武功に長じた。1992年より登封市体委で武術の発掘、整理、編纂事業に従事し、前後して『少林武術拳械録』、『少林伝統套路精選(共著)』等を出版した。『少林武術拳械録』は中国武術協会より表彰を受けた。当代少林十大拳師の一人。
劉振海
劉存良(1934~)
 登封県高庄の人。少林寺武僧徳根の弟子。
劉存良
王超凡(1937~1994)
 登封県石道郷王楼村の人。法号を素智という。幼い頃より父から武術の薫陶を受け、前後して呉山林、劉玉臣に就いて少林拳を学んだ。後に少林寺の貞和を拝して仏門に帰依し、更に功夫を深めた。王超凡の心意把、炮拳、斉眉棍は「少林三絶」と称され、その他に双草鎌、双拐、達磨杖等の希有兵器を善くした。王超凡は登封少林武術協会副会長、嵩山少林拳法研究会会長、嵩山少林寺武術館管長等の要職を務めた他、1979年に登封で初めての武術学校である登封市第十五中学武術専修班を創立し多くの優秀な人材を育成した事は、後の少林武術界にとって大きな貢献となった。その著書には『少林武術要略』、『少林長護心意門拳』、『少林兵器優選』等がある。1994年に糖尿病の合併症により死去。王超凡の後を継ぐ人物には子息の王占洋、王占通等がいる。
王超凡
高徳江
 黒龍江省哈尓濱市(ハルピン市)の人。哈尓濱少林武術社社長。著書に『少林武術ー連手短打、達摩杖』、『少林武術ー炮捶、大洪拳』、『少林武術ー擒拿与脱打、火棍』等がある。
高徳江
王長青(1943~2008)
 登封市大金店郷王上村の人。法号を徳虔、筆名を少室山人という。若い頃、民間少林拳師の李根生に就いて学び、後に少林寺の素喜を拝して俗家弟子(在家弟子)となり、徳虔の法号を賜った。永祥徳禅、素喜等の支持の下、少林寺に伝わる拳譜や資料をを収集、整理し、書籍として多数出版した。書店で少林拳に関連する書籍棚を見れば、必ず王長青(徳虔)の著書を見つける事が出来るほどで、そのため人々に「少林書王」と称されている。少林寺武術発掘整理小組組長、雑誌『少林拳』編集長、少林拳譜編纂小組組長などを務めた。少林寺国際武院院長。当代少林十大拳師の一人。
王長青
石永文(1945~)
 河南省開封市の人。俗名を石喜文という。幼少時に父の石久芳に就いて家伝の武術を学び、後に父の紹介を経て徳根との知遇を得る。文革時期、前後して徳根、呉山林行正素喜等の高手より少林武術を学んだ他、徳根、呉山林に学んだ師兄弟をはじめ、多くの拳師を訪ねては交流し切磋琢磨した。伝統的な少林武術の継承を重視しており、早い時期から現在に到るまで、伝統少林拳に関する研究論文を多数発表している。開封少林寺武術院院長。
王西乾(1945~)
 徳根の弟子。登封市文化局勤務。『少林紅拳』、『少林伝統套路精選(共著)』
朱天喜(1947~)
 鄭州市の人。法号を行真という。文革時期、封建思想の代表として迫害を受け、身に肺病を帯びていた少林寺武教頭の徳根を自宅に匿い、貧窮した家計から薬を買い求め看病した。そのため朱天喜は徳根より特別の寵愛を受け、関門弟子としてその秘伝を授かったという。1986年、鄭州鉄路少林武術院を創立し、後に鄭州少林寺武術学院と改めた。近年少林寺及び少林武術界では改めて「禅、武、医」の三位一体が提唱されているが、朱天喜も早期からこの論を実践している。特に「医」の方面では「少林保健品有限公司」を設立し、徳根より伝わる少林寺の薬方を科学的に分析し、臨床実験を経た新たな少林医薬を開発販売している。映像教材に『少林武術』等がある。
朱天喜 朱天喜
耿合営(1955~)
 1979年、日本少林寺拳法代表団が少林寺を訪れ帰山朝聖を行った際、登封代表隊の一員として表演を行った他、翌年には中国体育代表団として梁以全等と共に日本を訪れ交流を行った。登封県少林武術体校の第一期生。羅漢拳、炮拳、各種功法に精通する。登封市達磨武術学校校長。当代少林十大拳師の一人。
耿合営
王宗仁(1957~)
 登封市少林寺南沼溝村の人。10歳より伯父で著名少林拳師の王頂一より少林武術の厳格な訓練を受け、特に師爺凌斗より伝わる長護心意門拳、七星拳、六合拳、春秋大刀の功夫に長じる。1971年、15歳で初めて登封市の武術比賽に参加し、拳術、長兵器の二項目で優勝して人々を驚かせた。師父の王頂一亡き後も間断なく苦練し、現地の名師を訪ねては取長補短し、長護心意門拳と七星拳では当地を代表する拳師の一人として知られるようになった。1979年には登封県で初めての武術専科班である第十五中学で武術教練の任に就き、王超凡呂学礼等の拳師と共に、後の登封少林武術界に於いて活躍する優秀な人材を育成した。また1985年、「南沼溝武術館」を創設、1992年に登封市公安局と合弁で「少林寺藍盾武校」に改変、現在は登封市内に移転し「少林寺文武学院」となり、院長兼総教練を務める。当代少林十大拳師の一人に数えられ、老齢に差し掛かる者が多い伝統拳師の中、現役で古伝少林拳の拳勢を体現できる数少ない拳師として、その復興、伝承に参与している。
王宗仁
焦紅波(1962~)
 法号を徳定という。幼い頃より揚聚才に就いて学び、後に少林寺の素雲に拝師し功夫の奥妙に到った。北京体育学院卒業。1987年に日本少林寺拳法連盟の要請に応じて少林武術代表団の一員として、日本を訪れた他、フランス、イタリア、アメリカなど世界各地に赴き表演と教授を行い、多くの「洋弟子」の崇拝の的となった。また現地で唯一、少林寺直轄の武術施設である少林寺武術館の館長として、国内外より少林の名を慕って訪れた多くの愛好者の為の教学活動に関わっている。
焦紅波
徳建(1963~)
 黒竜江省克山県の人。号を合一、俗性を丁という。幼い頃から練武を好み、関亜坡より太祖門、陳景素より龍形八卦掌を学んだ。後に学を求めて少林寺に至り、徳根の大弟子揚桂吾及び呉山林の外甥橋黒宝に就いて少林拳を学ぶこと多年、最後に呉山林徒弟張慶賀との知遇を得、その門に入った。少林寺の禅武を更に深めるため、1990年に少林寺に出家し、素喜を拝し弟子となった。少林寺の慈雲堂に籍をおいているものの、多くは喧噪を避けて少室山の三皇寨禅院に籠もり、修行僧としての生活を送っている。最近になって徳建の徒弟等によって公式サイトが開設されたり、中国中央電視台でドキュメンタリー番組が制作されたりと、世間に広く知られるようになってきた。
徳建 徳建
『武術・1997年春号/福昌堂刊』より(左) 『嵩山訪禅記/趙国成等著』より(右)
永信(1965~)
 安徽省穎上県小店郷の人。俗性を劉応成という。現少林寺方丈。1983年に少林寺に帰依し、第二十九世方丈の行正を拝して永信の法号を受けた。出家して後、北京広積寺の仏教培訓班に参加し、仏学知識を高めた。1999年、第三十世方丈に昇座して以降、「禅武」の提唱、世界遺産への申請、少林寺地区の大改修、世界各国での「少林」に関する名称の商標登録等、積極的な対外活動を展開しており、その政治的手腕は高く評価されている。
永信 永信
徳揚(1967~)
 河南省太康県城関鎮の人。俗性を史萬峰という。俗家弟子王長青の口添えにより、少林寺首座素喜を拝し出家した。1980年~90年代にかけて、少林寺を代表する武僧として団を率い、国内外で数多くの武術活動に参加してきた他、多くの武術愛好者を迎え交流し、少林寺の武名を世界に知らしめた。現在は武僧後備隊の校長を務める。
延魯(1970~)
 山東省臨浙地区郯城県の人。
延魯