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登封市唐庄郷磨溝村 民間伝統少林拳 

 登封市区から北東に約20Km、四方を山に囲まれた小さな土地に、磨溝村はある。戸数360余り、人口約1300人の小村であるが、この磨溝は同じく登封県内の石道郷阮村、告成鎮八方村、東金店郷駱駝崖村と並んで「教師窝」と呼ばれる、古来より優れた拳師を輩出してきた「武術村」である。当門の祖師爺である凌斗はこの地で武術を学び、後に独自の精華を加えて少林村の王頂一師爺に拳を伝えた事から、磨溝は当門武術の故郷であると言う事が出来る。

磨溝の概要

 磨溝の名の由来にはひとつの伝説がある。神話の時代。天地が開闢し新たな世界が創造された時、まだ地上に人間はおらず、女媧と伏羲の二神(この伝説の中では「桑桑」、「昌昌」という姉弟として表されている)は向かい合った山の頂に登り、女媧は磨盤(石臼)の凹の部分を、伏羲は凸の部分を、それぞれ同時に転がして結婚の可否を占う事にした。すると転がった石臼は中間でぴたりと合一したので、二神は婚姻を結ぶ事を決め、子供を産んだ。この子供達が現在の人間の祖先となり、磨盤(石臼)を転がした故事より、この地を磨溝と呼ぶようになったと伝えられている。
女媧廟 磨溝山景
観音老母廟、又の名を女媧廟とも言う(左) 磨溝山景(右)

 磨溝村民の八割は、范姓の人からなる。次に凌姓が続き、その他には任姓、劉姓などがある。磨溝范姓の祖先は北宋の著名な政治家、思想家である范仲淹(文正)であると言われており、この事は磨溝人の誇りとするところである(村の拳房として使われていた范姓祀堂には范仲淹を祀った碑が残されている)。范姓の人々は、磨溝より約10Km南にある焦河という土地より、明の万歴年間に磨溝へ移住してきたと、《范氏家族誌譜》に記載されている。

武術の始祖

 老拳師達の語る伝承によると、磨溝の武術は「挪挪爺」という人物より始まったとされる。挪挪爺とは即ち元末明初の少林僧、緊那羅の事である。緊那羅は少林寺の炊事僧であったが武功が群を抜いて高く、後に山門を出て焦河(磨溝范姓の原籍地)もしくは磨溝に到り、そこで少林寺由来の武術を伝えたと言われている。

 明洪武洪武年間、通政司参議の官職を務めていた范一族の范譲という人物が、緊那羅の武功が高い事を知り、これを招いて子弟達に武術を学ばせた。そして後の万歴年間に、焦河の范姓二枝が磨溝に移住し、同時に練武の伝統も磨溝に伝わったという事である。以来、挪挪爺は磨溝武術の祖師爺として村人より崇拝され、以前は村北の山頂に廟を作り像を奉っていたという。

伝承系譜

 民国以前の伝承系譜に関しては、范可軍、范士通、范士弘、李際遇、范老五等、数名の伝説的な名師を除いて、既に考察することが難しくなってきている。范海雲老拳師をはじめ数名の老拳師の追憶によると、磨溝武術の伝承系譜が途切れずに連続して遡れるのは、清末民初の范水からであるという。

 第一代の著名拳師には范水、范跟群などがいる。第二代には范大田、凌斗、范小拴、范改姓、范留保、范丙洋などがおり、その中でも范大田と凌斗が最も有名である。范大田はかつて朋友の揚大章を幇けて監獄破りを犯し、更に数名の官吏を打ち殺した事件が原因で河北へ逃亡し、そこで十八年間武術を教授した後に登封に帰還した。また景店、隔子溝、馮溝などの近隣の村々でも教授を行った。凌斗は范大田の妹夫である。かつて少林寺の付近で教場を開き、王頂一、劉豊臣などは皆凌斗の得意弟子である。第三代の著名拳師には范慶華、任全有、凌瓷耐、任慶、任和申、任成等がいる。第四代には范遂有、范麒麟、范跟三、范小章、范双喜等がおり、その中でも范遂有の功夫は相当なもので、一拳で牛を地面に打ち倒したという逸話が伝わっている。第五代には范拴緊、范金庫、范小娃、范孟喜、董富、范端敬、范和尚等がいる。その中で、范端敬は黄埔軍校(孫文によって1924年に設立された軍幹部の養成学校)に合格した。第六代の著名拳師には范海雲、范福中、范金祥、范國泰、范林森などがいる。第七代には范永和、凌靖波、劉振傑、凌建松、范喜順、任延亭、凌国選などがいる。

范福中老拳師 范福中老拳師
磨溝拳師 磨溝拳師
范福中老拳師(左) 范国泰老拳師(右)
磨溝村の拳師達(下)

武術の内容

 磨溝の武術は、現在少林寺や登封の武術学校で見られるような競技用の表演套路とは明らかに異なり、古伝武術としての風格を色濃く残している。架勢は表演用のものより概ね高く(もちろん、低い架勢も存在するが)、歩法が臨機応変になっている。また拳の握り方が独特であり、この拳形は磨溝以外では見られないものである。手法は一般的な少林拳が直線的なものを主とするのに対し、磨溝拳には大小円形を伴った手法が多く見られる。

 古伝武術の例に違わず外観よりも実用を重視しており、抗日戦争から軍閥戦争、国共内戦等の混乱期には、横行した匪賊から村を護るため、または耕地や水利に起因する近隣の村々との闘争に勝利し、村の利権を確保するため、常時武術が練られていた。磨溝に住む老拳師の中には、これらの戦闘に実際に参加した経験を持っている者が少なからずいる。

 磨溝に流伝している伝統拳種には小洪拳、大洪拳、老洪拳、雲陽拳、関東拳、関西拳、青龍出海拳、七星拳、猴拳、六合拳などがある。兵器には大刀、流星錘、拐子、九節鞭、縄鞭、猴棍、火機鎌、草鎌などがある。以前は更に多くの拳術や兵器が伝えられていたが、現在では少なからぬ部分が失伝してしまっているとの事である。

 磨溝は西窟、南窟、東窟の3つの自然村からなるが、練られている武術についても、それぞれの練功場所によって異なった風格がある。西窟にある范姓祀堂は村の大きな拳房で、以前は常に多くの村人が集まって拳を練っていた。祀堂には「先賢文正公范子之神位」と「創建范文正公祀堂碑記」の石碑があり、煉瓦の床面には少林寺の千佛殿と同じく練功で出来た脚窝(窪み)があったというが、現在祀堂は倒壊し、僅かに南北の壁面と瓦礫を残すばかりである。

范姓祀堂 范姓祀堂
范姓祀堂。往時は練功をする村人で賑わっていたのであろう

磨溝武術の現在

 以前の磨溝では殆どの村民が武術に関して何かしらの心得を持っており、俗に「喝喝磨溝水、都会打三滾、吃吃磨溝飯、都会当教練(磨溝の水を飲めば皆とんぼを切る事ができ、磨溝の飯を食えば皆教練になれる)」と言われる程、磨溝人と武術は切っても切れない関係にあった。しかし最近は経済社会の発展や、人々の生活環境、考え方の変化により、武術を練る人は次第に少なくなってきている。主たる拳師は皆70~80歳の高齢であり、子供達でもわざわざ疲れるような武術を学ぼうとする者は殆どいない。

 80年代初頭、現村支部書記の范愛建は磨溝武術の失伝を危惧し、村の若者を集めて武術学習班を組織した。学習班は一定期間続けられ、後期には近隣からも学習者が参加して非常に大きな規模になったが、最終的には資金上の問題から解散してしまった。村の30~40歳の年代に武術の心得がある者が比較的多いのは、この学習班の成果である(先述した第七代はこの世代にあたる)。しかし、現在も継続して練功している者は以前ほど多くないのが実状である。

磨溝武術の復興に向けて

 勿論、磨溝の人々も村の伝統武術が衰退していくのを、ただ座視している訳ではない。2008年春節には、磨溝村としてはじめての『磨溝村誌』を編纂し、その中でも磨溝拳の発掘、保存、発揚の必要性には大いに言及している。

 范海雲は村を代表する老拳師の一人である。少林寺の永信方丈に請われて寺直属の武僧団を指導し、また2006年3月にロシアのプーチン大統領が少林寺を訪れた際は現地武術家の一人として磨溝拳を披露したりもした。現在、磨溝村の武術を歴史、実技の両面から発掘考証し、総合的な拳譜を編集する作業を行っている。

 磨溝の青年拳師である劉振傑は、范福中老拳師に就いて武術を学ぶ他、磨溝西窟および南窟の老拳師を訪ねては積極的に拳の収集を行い、時には凌斗の故郷である凌家門はじめ、近隣の村や町にも磨溝武術の伝承を求めて足を運び、拳や拳訣などの調査を実施している。

范海雲老拳師 劉振傑
范海雲老拳師(左) 劉振傑教練(右)


交流、発展

 2006年夏、筆者は王宗仁師父に引率され、磨溝を訪れた。かねてより師父から磨溝の名前は聞かされていたが、実際に足を踏み入れたのはこの時が初めてである。我々は当地の武術を訪ねに来たという事。また磨溝と同一系統の武術を伝承しているとの事を告げると、数名の村人が集まって来て、その中の一人である劉振傑教練と知遇を得た。その後、磨溝村村支部書記の范愛建先生の協力の下、范福中、范国泰、范林森、范海雲等の老拳師達と交流を持つことが出来、徐々に磨溝武術の実体が明らかになってきた。

 初めて劉振傑教練と当方の武術を照らし合わせた時は、まるで生き別れになった親戚と数十年降りに再会したような感動を覚えた。また、王宗仁師父の伯父、王頂一師爺の名前は現地老人の記憶にも鮮明であり、その甥である王宗仁師父の「源流探訪」は非常に喜ばれ、大いに歓迎された。こうした一連の情況から双方意気投合し、今後協力して磨溝武術の復興、発展に当たっていこうという共通認識が育まれていった次第である。


左二番目より筆者、范林森老拳師、范愛建書記、劉振傑教練、王宗仁師父、王志強師兄

  范福中老拳師を訪ね、磨溝武術についての話を聞く