当門の系譜

少林長護心意門

一言に「少林拳」と言っても、少林寺とその周辺地域には伝承系統の異なるいくつかの流れが存在し、其々が独自の内容を保持しながら現在にまで伝わっています。

当会で伝承している少林拳は正式な門派名を「少林長護心意門」と言い、その源流は少林寺より東に約20キロ行った山間の、磨溝という小さな村にあります。この磨溝は「教師窩」と呼ばれる古来より優れた拳師を輩出してきた「武術村」であり、元代少林寺の伝説的な武僧・緊那羅によってもたらされたという、現地でも最も古い時代の少林拳が伝わっています。

磨溝村練功房

磨溝村に遺るかつての練功房

緊那羅

緊那羅

『少林寺誌』、『登封懸誌』などの古文献によると、緊那羅は元代の少林寺厨房で働く雑役僧であったと言われています。

曰く「乱れた頭髪に上半身裸で裸足。日頃他の者とも話すこと無く黙々と仕事をこなすばかり。誰もこの僧の名前を知らなかった。ある時、紅巾軍(元朝に反抗した農民反乱)が少林寺を略奪せんと包囲し、寺の衆僧はあまりの突然故に誰もが動けずにいた所、棍を手に猛然と山門から飛び出し数十丈の大身に変化し「吾は緊那羅王なり!」と一喝した。紅巾軍らは皆恐れをなして散り散りに逃げ出し、後に衆僧は緊那羅王を観音菩薩の化身であるとしてこれを奉った」と。

緊那羅は、少林寺院内に於いては「護法伽藍(寺の守り神)」として殿を建て奉られている他、登封に点在するいくつかの教師窩(武術を伝える村)では「挪挪爺」、「挪夫」等の異称で呼ばれ、現地の拳師らは皆これを深く信仰しています。緊那羅が武術を伝えたと言われる磨溝村には、「磨溝挪夫傳法語~」という句から始まる味わい深い古拳歌が、老拳師の口伝えによって遺されています。

ちなみに、当会のマークにある「挪」字はこの緊那羅の異称から来ており、少林武術の象徴である緊那羅への敬意が込められています。

凌斗(1872~1954)

凌斗は磨溝より山一つ隔てた凌家門の人。磨溝拳師・范朝元の娘と結婚し、岳父(妻の父親=范朝元)について磨溝の拳を学びました。凌斗は功成った後、自身の実戦経験と研究の精華を加え、その拳をひとつは少林寺村にて王頂一と他数名に伝え、またひとつは故郷の凌家門の一族に伝えました。これが少林長護心意門の始まりです。

凌斗の武名は当時の少林寺・登封地区でも高く、現地では今でもいくつかの逸話を聞くことができます。日中戦争中には「少林抗日救国会」の副会長を務め、日本軍に抵抗する部隊に少林武術を指導しました。また農民出身で八路軍(中国人民解放軍の前身)の将軍にまでの登りつめたという許世友との交友があり、許は凌斗に就いて武術を学んだ事があると言われています。

凌斗故居と凌戦勝老師

かつて凌斗が練功したと言われる洞窟(左)
凌斗のお孫さん・凌戦勝老師(右)

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かつて日本軍への抵抗勢力に指導をしていた凌斗の拳を、いま日本人である自分が受け継いでいるという事には、不思議な運命を感じます。またこれは凌斗祖師爺の四男である凌松水先生(台湾在住・2014年逝去)の口碑として、凌斗の曾孫に当たる方より伺った話ですが、凌斗の家には常に数多くの弟子がその名を慕って集まっており、その中に「ジンムー」という日本人がいたそうです。「ジンムー」と言うのは凌松水先生の記憶している中国語での発音で、漢字では恐らく「金木」もしくは「青木」ではないかと思われます。当時、凌松水先生はまだ子供だったため、当時いたその他の弟子の名前や出自は一々覚えてはいなかったそうなのですが、その「ジンムー」という日本人はよく幼かった凌松水先生を背負って山に登ったり一緒に遊んでくれたりと、非常に印象に残っていたので覚えていたという事でした。

当時の日中関係および中国の国内事情は複雑であり、様々な思惑・恩仇が入り乱れていた時代でもあります。その中で、いま自分が身を置く門派の始祖に、かつて「ジンムー」という同じ日本人の弟子がいたという事には何とも言えない親近感とロマンを感じるものです。

王頂一(1908~1976)

王頂一

当門第二代の王頂一師爺は1908年、少林寺対面より東に1キロほど行った 少室山の麓に位置する南沼溝の出身です。

凌斗を師と拝し、長護心意門拳、七星拳、偃月刀などの功夫を学び大成しました。凌斗が武術を教える時、普段は凌斗が少林寺村まで赴いて王頂一を教えていましたが、農繁期には度々磨溝に赴いては師父の家業を手伝い、またその合間には武術の教えを受けていたと言います。その為、今でも磨溝の老人には当時「少林村の王頂一が、村をよく訪れて凌斗より拳を学んでいた」という事を覚えている人が少なくありません。

抗日戦争や内戦、文革などの混乱により、少林寺院内に武術が出来る僧が殆どいなくなっていた時期、当地を代表する少林拳師として各地を訪れ少林武術の教授をし、門を発揚しました。特に山東梅花門の賈龍生先師とは友誼が深く、度々山東に招かれては少林拳の教授を行っていました。賈龍生先師は次男の賈其岩師伯に命じて少林拳術を学ばせ、王頂一師爺は甥の王宗仁師父に命じて賈龍生先師の槍と擒拿を学ばせたという話は、当時武林の美談として広く知られる所であったそうです。

当会で練習している梅花槍は、元々は山東梅花門に伝わるものです。王頂一師爺と賈龍生先師の交流を記念し、先人の友情を忘れないため、今でも大切に練り続けています。

王宗仁(1957~)

王頂一

第三代となる王宗仁師父は1957年、登封県少林寺南沼溝村に生まれました。先に父の王朝鮮公について基礎を学び、後に伯父の王頂一師爺に就いて凌斗祖師爺の伝を学び大きく進歩しました。王頂一師爺亡き後は賈龍生先師を第二の師と拝し、槍及び擒拿を学んだ他、登封拳師の呂学礼はじめ劉存良、呉風高等の老拳師より積極的に学び、伝統的な拳術や兵器などの功夫を更に深めました。

王宗仁師父が現在登封の伝統拳師の中で最も年若く、かつ全ての動作を実際に正しく打てるのには一つの原因があります。王宗仁師父は十歳に満たない頃より王頂一師爺に就いて武術を学び、その教授は1976年に師爺が帰西される(亡くなる事)まで続きました。王頂一師爺は享年68歳、王宗仁師父は当時19歳、その年齢差は実に49歳です。 通常は間にもう一世代挟む所を一代飛ばした形で師事した為、王宗仁師父は実際の年齢よりも一代上の功夫を学ぶ事が出来たのです。

現在は少林寺院内に招かれ拳の伝承に関わる顧問を務める他、登封市少林武術協会主席として、古伝少林拳の保存と普及に力を注いでいます。