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2017年少林之行(1)

●9月12日~13日
 13:55のフライトでまずは北京へ。そこから夜行列車に乗って、次の日の6:30に鄭州に着きました。いつもならそこから高速バスに乗って約一時間半で登封に着くのですが、今回は鄭州である人と会う約束をしていました。

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▲朝の鄭州駅。中国の東西南北へ通じる中心駅です。

 そのある人とは凌戦勝老師。凌斗祖師爺(私の師父の師父の師父)のお孫さんです。鄭州駅から北の金水区に向かってバスで約一時間。バス停で凌戦勝老師が、息子の凌尼洪を伴って待っていてくださいました。

 今回は凌斗に関するこれまで知らなかった故事を沢山伺う事が出来たのですが、その中でも特に興味深かったというか不思議な話がありました。この話は凌尼洪が台湾にて凌斗の四男である凌松水先生から聞いたという事です(※凌松水先生が台湾に渡った話は後半で書きます)。

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▲凌戦勝老師(向かって右)と息子の凌尼洪。様々な故事を検証し、はっきりしない事柄はその場で親戚に電話して確かめます。

 凌斗は磨溝で岳父の范朝元について武術を学び大成した後、山一つ隔てた凌家門に帰り拳を教えていました。そこには常に数多くの弟子が凌斗の名を慕って集まっていたのですが、その中に「ジンムー」という日本人がいたそうです。当時、凌松水先生はまだ子供だったため、当時いたその他の弟子の名前や出自は一々覚えてはいなかったそうなのですが、その「ジンムー」という日本人はよく幼かった凌松水先生を背負って山に登ったり一緒に遊んでくれたりと、非常に印象に残っていたので覚えていたという事でした。

 「ジンムー」がどういう字を書くのか、残念ながらハッキリせず、ただ「ジンムー(jin mu もしくはqing mu)」という音と、日本人であるという事だけが記憶に残っていたそうです。音からすると「金木」或いは「青木」さんでしょうか。その後の「金木」の足取りは、現時点では掴めていません。凌松水先生以外の凌家門に残った一族からもこれまでにそれらしい話は聞いた事がありません。

 年代を考えると、凌松水先生が台湾に渡る前なので少なくとも1949年以前。そして凌松水先生は「13歳で参軍し、4年後に台湾に渡った」という事から1945年以前という事になります。1945年は日本が中国から撤退した年。それ以前はいわゆる抗日戦争の真っ只中であり、凌斗はその中で少林寺抗日救国会という抗日組織の副会長を勤めていました。その凌斗に、日本人の弟子がいたという話は何とも不思議でもありますが、しかし軍閥~国民党・共産党・日本軍・大陸浪人・諸外国など、様々な立場や思惑が入り乱れていたこの時代背景から考えれば、この時期にはどんな事が起こってもおかしくないと思います。また私自身にとっては、現代において自分が身を置く門派の始祖に、かつて「金木」という同じ日本人の弟子がいたという事に親近感とロマンを感じるのです。

 ***

 もうひとつの話。先ほどの凌松水先生について、私は2006年に凌家門に行った時にその名前を知り、凌松水先生が凌斗の四男で、その容貌が兄弟の中で一番凌斗に似ているという事で非常に興味を持っていました。また他の三人の兄弟は既にこの世にいない事、そして凌松水先生は国民党に従って台湾に渡り、まだ生きているはずだと聞いて、その後の足取りをあらゆる手段で調べました。

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▲凌斗祖師爺の四男・凌松水先生の若い頃の写真。四人いた凌斗の息子たちの中で、一番容姿が凌斗に似ていたと言われています。

 その結果、2010年の時点で凌松水先生は高雄市にある栄民院という退役軍人の養老院の様な所に住んでいるという事を突き止め、栄民院の所長宛に問い合わせのメールを出しました。程なくして来た返信には「凌松水先生という人は確かに当院にいる。しかし個人情報保護の為、これ以上詳しい事はお教えできない。あなたのメッセージは凌松水先生に伝えたので、本人にその気持ちがあれば返事があるだろう」と記されていました。結局、その後返信が来ることは無く、だからと言って不確かな情況で台湾にそれを確かめに行く時間も資金もなく、心に引っ掛かりを残しながらも今に到るまでそのままになっていました。

 話は現在に戻ります。今回は凌戦勝老師から色々と凌斗に関する話を聞く狙いがあったのですが、思いがけずその息子さんの凌尼洪から多くの事を知る事が出来ました。これは実は私もよく解っていなかった事なのですが、2006年に凌家門を訪ねた時、凌斗の三人の息子は既に亡くなっており、その三男の奥さん(我々は「おばあちゃん」と呼んでいました)だけが一人で凌斗の故居を守っておられました。その時、凌斗についての故事を聞く事が出来たのですが、凌斗の息子の内、唯一生き残っていた凌松水先生の行方は分からず、おばあちゃんに聞いても「松水はもう長らく音信がなく、所在もわからない」との事でした。

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▲凌斗の三男・凌松河の奥さん。凌戦備老師のお母様です。

 この時、おばあちゃん以外にも凌斗の孫という人には数人会っていたのですが、誰が誰の息子でという関係は詳しく聞いておらず、実は凌戦勝老師こそがその家を守っていた三男奥さんの息子さんだったのです。凌戦勝老師に会ったのはその翌年、2007年の事で、しかもその時には凌斗の家を守っていた「おばあちゃん(=三男奥さん)」は亡くなっており、家は既に廃墟となって崩れていました。

 凌戦勝老師によると、実際は凌松水先生との間に手紙のやり取りが続いており、凌松水先生の所在はきちんと把握されていたそうです。おばあちゃんはその辺りははっきりと知っていなかったようです。

 そして2014年3月。凌尼洪が台湾を旅行で訪れた時、凌松水先生と会う事が出来ました。凌松水先生は台湾に渡ってから後、都合三回凌家門に帰っており、2003年には「もうこれが最後になるだろう」と言って、実際それ以降故郷に戻る事はなかったそうです。凌松水先生はその後身体を悪くされ、計三回の癌手術を経てかなり弱った情況であったのですが、久しく会う事のなかった親戚の来訪を非常に喜び、毎朝市場で果物を買って来て、それを自らきちんと切り分けて凌尼洪の来るのを待っていたそうです。

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▲2014年。台湾を訪れた凌尼洪と映る凌松水老師。親族の来訪をとても喜ばれておられたそうです。

 凌尼洪も初めはひと目あうだけのつもりだったのが、老人の喜ぶのを見て一週間の滞在中、毎日凌松水先生に会いに行き、そこで上記の様な故事を色々と聞いて来たという事です。

 ちなみに私が凌松水先生に向けて日本からコンタクトを取った事は、ご本人も栄民院の所長から聞いており、「もしや『金木』か?」とも思われたそうですが、生憎その時には体調を崩し入院する程に健康を害されていた為、「会うのは止めよう」と決められたそうです。

***

 凌尼洪が2014年3月に凌松水先生に会った5ヶ月後の8月に、凌松水先生は亡くなられました。凌尼洪が台湾にいる間毎日、最後まで「自分の人生はよかった。最後に親戚に会えて本当によかった」と繰り返し言っておられたそうです。

 凌松水先生の事はずっと気になりながらも、昨今は半ば諦めかけていた状態でした。今回、その想いがやっと叶い、しかもこれまで想像もしなかったような日本人の存在を聞くことが出来ました。上に書いたふたつの話はそれぞれ違う話で直接的な関係はありません。しかし自分の中では色々な物事が混然と繋がって、何かしらの形になっていくような不思議な感覚を覚えたのは事実です。

 凌松水先生、お会いする事はありませんでしたがとても感謝しております。安らかにお休み下さい。

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▲凌戦勝老師(中央)と息子の凌尼洪(向かって左)。お二人のお陰で沢山の事がはっきりとしました。謝謝!

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