最近縁あって、武術でも東洋医学でも、古典を読む事が楽しみになっている。
古典を読むには、まず原文をざっと流し、大意を読みとる。その後辞書を引き引き書き下し、ここでも大まかな内容を検討する。そして書き下した文章から、今度は一文一文に含まれる意味を徐々に明らかにしていくのである。
古典は、読み手の水準や観点によって、解釈が様々に広がっていくのが面白い。もちろん、その方面の経験と知識無くして、原則を外れた自分勝手な解釈をする事は慎んで注意すべきであるが、同じ一節の文章でも、何度も何度も読み込んでいく内に、その時々に応じて様々な答えやヒントを与えてくれる。
そういう意味では伝統武術の套路も、これと似たような事が言えるのではないだろうか。我々が套路を学ぶときには、まずそのかたちを正確に習得し、そこから千遍万遍と繰り返し練り込む。時に動作を分解し、ひとつひとつ単勢で練り検討する。
そうしていく事によって、徐々にその拳に含まれる味道を味わう事ができてくる。一代一代、拳を伝えてきた先人達の経験と智恵が徐々に見えてくるのである。
学習者、特に初学者は、この過程に於いてはきちんと師に就いて、その教導の元に練功を行わなければならない。古典の書籍も伝統の套路も、翻訳者たる師の教えが必要である。武術を本やビデオで独習が出来ないのはこのためである。また同時に伝統武術の指導者には、古典たる套路を現代文に翻訳できる能力が必要である。
伝統武術の套路は古典と同じく、先人の経験と智恵の宝庫なのである。そして、武術にしても医術にしても、古典を通して得た知識は、実践において研究し、意の如く用いることができるようにならねばならない。
古典を単なる昔話ではなく、現代に生きる我々にも、活き活きとその奥妙なるところを現してくれるように、自ら日々努力していかなければと思う次第である。
※写真は宗代 に成立した医古典『難経集註』